あなたの風景と言葉の物語
住本尚子
ハイウェイというカタカナには本当に馴染みがなくて、馴染みのない言葉はしっくりくるまでに時間がかかる。日本語にすると高速道路になると思うんだけど、そう遠くまで車で出かけることもないから、使うこともほとんど無い。
東京で過ごしていると、車に乗る事がほとんど無くなってしまって、車の窓からの光景は、子供の時に過ごした広島の景色が思い浮かぶぐらいだ。
アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』について書きたくなった。
いわゆる高速道路みたいな道はない映画だけど、ハイウェイ、そう、標高の高い道をずっとウロウロしていて、その道は故郷のような懐かしさがある。主人公のバディからしたら、おそらく身近な場所なんだろう。
私はイランには行ったことがない。けれど、幾度と同じ場所をひた走る姿とその埃っぽくて乾燥した大地は、わたしのおばあちゃん家の玄関前とか、小学校へ行く道の砂利道とか、小さい頃に遊んだ公園が思い出されるから不思議だ。この映画みたいに広大な土地ではなかったけれど、土を見ると懐かしさでいっぱいになる。最近は随分と土に触れていないなぁ。
この映画では、冒頭、バディという主人公の男性が車を運転しながら、人探しをしている。窓から見える人々は仕事探しをしている人や、仕事をしている人だ。バディさんはどうやら仕事を任せたい人を探しているようだ。
そう、それは不思議な仕事。
小高い丘にある穴に向かって、朝6時にバディさんの名前を2回呼ぶ。バディさんから返事があったら穴の中からバディさんを救出して、もし、返事がなかったら、シャベルで20杯土をかぶせてほしい、という仕事。もしこの仕事をこなせば、大金を渡すのだと。そう、その穴でバディさんは自分の死を迎えようとしているのだ。
バディさんは若い兵士や神学生にお願いしてみるものの、拒否されてしまった。そもそもまずよく知らない人の助手席に座ること自体不安なのに、話を聞くと、自殺の手伝いをして欲しいという内容なのだから、なかなか受け入れられるはずもない。
みなお金には困ってはいるものの、人の死を左右する事でお金を貰うなんて、なんとも恐ろしいことだ。しかも、バディさんには慰めの言葉や詮索は許されない。
なんて自分勝手なのかしら!憤りを覚えてしまいそうになるバディさんの行動に、ちょっと自分を重ねてしまう。
バディさんは誰かに相談を持ちかけたり出来なくて、悩み事を深く考えてしまうのだろう。自分一人で考えて考えて、結論を出した時にはもう誰からの助言も必要としていなくて、WINWINな関係ならば成立すると思った時のその行動力は、ある。この計画ならば誰にも迷惑にならないはずだと思ったんだろうな。(実際にはめちゃくちゃ他人を巻き込むことだけど)バディさんの事を、あまり他人事とは思えなかった。私も独りよがりになってしまうことがあるから。
車窓から見える風景は、ずっと殺風景で、その殺風景に私は少し癒された。私が普段目にする光景は、広告だらけのビルや電車に、iPhoneから写しだされる沢山の文字や情報や画像。すべてが押し寄せてくるような風景で、その情報に埋もれないように息をしている気さえしてしまう。浅くなる呼吸。この映画での車内には、そんな呼吸のしずらさがある。だけど、外の景色は大きく広がっている。
大人になると、風景というものが、こんなにも人の心を左右するのかと思い知らされる。
風景には、せめて無言でいて欲しい。疲れた心と身体は、そんな事を考えてしまうような気がする。
バディさんは最後に、博物館で働いているバゲリさんという老人を乗せる。
バゲリさんは病気の息子がいて、その治療のためのお金を必要としていた。バディさんからの申し出は本当は受け入れたくなかったけれど、バディさんを助ける方法がそれしかないのなら、受けようと許諾したのだ。
バゲリさんはよく話す。
今までの助手席に座った若い兵士や神学生も話してはいたけれど、バディさんに気を遣ってなんとも居心地悪そうだった。
バゲリさんは生活苦で、桑の木にロープをかけて自殺しようとしたことがあるらしい。だけどその時に触れた桑の実を食べて、とても甘くて、もうひとつ、もうひとつと食べていたら、夜が明けた。
自殺はしなかったのだと。桜桃の味が、バゲリさんを助けたのだった。
バディさんはバゲリさんを職場の博物館まで送った。その帰りに、ふと車窓から写真を撮ってくれないかと女性からお願いされる。おそらく恋人と思われる2人に向けて、バディさんは渡されたカメラのシャッターを切る。バディさんは知らず知らずのうちに、知らない誰かの助けとなった。語られない車窓の向こうから、不意に話しかけられたようだった。
土から思い出される記憶の中の私は、幼少期が多いのだけど、私は風景に溶け込んでいたように思う。
大人になってから、何故だか風景はまるで自分の人生とは別物のようなものに感じることがあって、バディさんは、そんな疎外感から、ふと抜け出したのかも知れない。
そしてバディさんは再びバゲリさんに会いに行く。そして、明日の朝、穴に行ったら、石を2個投げてくれないか?眠っているだけかもしれないから。約束したよ!と告げた。
この映画の中で、初めてバディさんの言葉が聞こえた気がした。
本当は助けてほしくて、でもそんな事を忘れよう忘れようと勝手に人に壁を作ってしまって、どうしようもなかった心に、桜桃の味のように沁み入る言葉や出来事が、バディさんに起こったようだった。
言葉はじわじわと広がっていく。
馴染みのない言葉に私は無頓着になりがちだけど、生きている間に聞ける大切な言葉なんて、そう多くないだろう。
この映画の最後は、映画の撮影シーンとなる。
スタッフや監督のキアロスタミが話したり、バディ役の俳優もいる。なんだ、さっきまでのバディさんの話は物語だったんだな、と、よく分からない安心感に包まれる。
どんどんと視界が広がるような感覚になった。
この映画で切り取られる風景も言葉も、すべては作られたものだ。それをどう感じるかは人それぞれだし、私たちの人生も人それぞれだ。
はたから見れば、誰かの人生は、この映画の様に、独りよがりな男の物語のようにもなる。
きっと私の人生も、切り取る風景も言葉も、選べるのだ。
当たり前の様だけど、そんな当たり前の事を私はよく見失ってしまう。
1日家に籠ってしまった日の事なんて、忘れてしまおう。
仕事で理不尽な目に遭ったのなら、無かった事にしよう。
誰かから切り取られた物語を気にするのではなくて、ちゃんと自分で物語は紡ぎ出せるはずなんだ。
あなたの物語も、誰からでもなく、あなたから切り取られて欲しいと思う。
どう切り取ったって、だって、自分の人生だもん。仕事で嫌な目に遭った事よりも、仲間と飲んだ日を切り取るように、どんな些細な物語でもいい。
それは一度しかない、あなたの物語としてあるべきだから。