空はこちらを見ている。空のことを、天とも言う。天には神さまがいたりする。
気とも言う。空気や大気も空の一部である。
なにもないことを示すこともある。それは同時になにかが入る余地があるということも意味する。
日本語の空、には、そうした別の世界を示す天としての空と、なにもない虚としての空、相反する意味が同居している。しかしどちらも別物なのではなく、「空」ということばを介して、まったく別の意味の同じ存在を示している。
雨の日は、土や草木、アスファルトなどの匂いが普段よりも増して強く感じられる。「雨の匂いがする」とよく言うけれど、それは雨そのものの匂いではない。晴れの日には感じることのない、気にも留めない、または忘れ去られてしまったあらゆるものたちが雨に濡れることで、その存在を主張するかのように匂い立つのが雨の匂いなのだ。
子供の頃、クリスマスの朝に玄関の外に置かれているプレゼントを手にした時の、箱のつめたい感触と包装紙を開けるときの胸の高鳴り、家族といつもより少しだけ豪華な食事をしながら、テレビでクリスマスの特別番組を見ている時の幸せな気持ちはいまでも覚えている。
今の家は外国みたいな小さい謎のバルコニーがついている。そこからの景色が見晴らしが良くて好きだ。特に雲ひとつない晴れた日の新宿のビル街が良い。なんだかぺらっとして、書き割りみたいに見える。
昔好きだった人にポストカードを送ったら、数週間後のある日ポストに返信が入っていた。今でも家にあるはずだけど、私は物を大切にするとか、きちんと整理することができないので、もう滲んでしまって読めない。
布団から出られない時が結構ある。眠いわけではないがめんどくさくて動けないというか。それでは生きていけないので、もうパソコンや資料、必要なものは全部ベッドに置きっぱなしで、布団から出なくても仕事をできる状態にした。
2021年は2020年よりもずっとよく分からなかった。今もよく分からないからうまく書けないのだけど、それは日常に対する姿勢みたいなものだと思う。多分去年はまだどこか世界が変わってゆく中で、「でもこんな状況では誰もわからない、うまくできなくて仕方ない」という投げやりな気持ちと、滅亡に向かっているとしたらそれはそれで、どうせみんな一緒だという安心感があった。要するに、いろんな考えることを放棄していた。
小さい頃、マクドナルドのポテトフライが好きで、週末になるとよく家族で昼ごはんに近所の店で買ってきて食べた。ポテトフライが好きだったのか、ハッピーセットのおもちゃが欲しかっただけなのかは分からないが、三つ子の魂百までというか、成長してもずっと週末のお昼といえばマクドナルドになってしまい、それは高校生でマクドナルドでアルバイトをしている間に油の匂いに耐えられなくなって食べたくなくなるまで続いた。
実家に行くたびに食洗機が導入されていたり、私の部屋が母の部屋になっていたり、トイレがウォシュレットになっていたり、そういう変化にも驚くが、とりあえず冷蔵庫を勝手にのぞくと変わらずいつも色々入っていて、それはそれで毎度驚く。
パトリシオ・グスマンの『チリの闘い』を見たのは2016年の秋だった。満員のユーロスペースで。あの映画を観てからずっと、社会主義政権の支持者たちが歌っていた「大丈夫 アジェンデ 私たちがついている」という歌がいつまでも耳にこびりついている。
ウィリアム・キャッスル監督の『ティングラー』という映画。人の恐怖が生む怪物「ティングラー」がうっかり映画館の中に放たれてしまう。当時、劇場ではいくつかのイスに座った人の座席に電気が走り、ビリビリっと来て脅かされる、という演出をしていたらしい。まるでスクリーンの向こうの映画館から現実の映画館へティングラーが飛び出してきたかのように、スクリーンの外の安全な位置から覗いていたはずが恐怖がこちらへやってくる。
「ねえ、雨が印象に残る映画ってなにがあるかな」「どんな雨?」「どんな、って言われても雨は雨だよ」「いや、雨には種類がある。どんな雨が具体的に言われないと答えられない」「うーん、じゃあアジアの雨かな。こっちに引っ越してきてまだ半年だけど、もうイギリスの雨には飽きたから。」雨が降ったりやんだりする日曜日の昼過ぎに、天使という名前の街に住む人とこんな会話をする。
始まりが後ろめたいタイプの愛は、だいたい冬に始まる。忘年会やクリスマスなどのイベントごと、正月を前に終わらすべき仕事の忙しさなどで恋どころではないはずなのに、始まるべきではない恋は、そんな慌ただしさの隙間をぬっていきなり立ち上がる。
金があるからタクシーを使うというわけじゃない、金のことなんか到底考えることができないくらい、いま目の前で起こっていることの対処をしなければいけないほど切羽詰まっているから人はタクシーを使用するのである。
今年のはじめに、小津安二郎監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』を観た。その時に「空がよく見えた。」と言っている人がいた。ほんとうにそうだった! 道と空と子供しかない場面もあって、ずっとずっと遠くまでこの場所が続いているようにさえ感じた。いつしか東京の街は空が建物で削られていき、見ようとしないと空は見えなくなっている。
もう直接話すことなんてできない、放つ言葉を選んで欲しい。そう思って恋人と手紙のやりとりした。何通かやりとりしたけれど、質問したことに答えてもらえなかったり、返事がもらえない状況になったりと、うまくいかなかった。おそらく、わたしにとって手紙というのは最終手段みたいなところがあって、直接会うよりは相手のことをより深く考えられるような気がしていたんだけど、相手にとっては違ったんだと思う。
めっきり夜が寒くなってきた。
寒いから頻繁に暖房器具に電源を入れるようになったのだけど、大家からは値上げした電気代を節約するように電話があったり(わたしのお家は特殊で電気代が固定なのです)、家賃の値下げの代わりに風俗で働かないかと謎の交渉をしてきたりと、マジで変な電話をしばしばかけてくる。
2021年といえば、パルスオキシメーターがお家に届いて、血中酸素濃度が測れるようになった。仕事場では二酸化炭素がどのくらいあるのかを測れる機械もあり、酸素と二酸化炭素が数字で見えるようになった。吸って、吐いてを繰り返している人間の痕跡を数字で確かめていく作業は、少し秘密めいている。あなたたちの残した二酸化炭素を、私は知っているのよ、という気分。
「いも」というテーマを思いついてから、「いも」と言うだけで気持ちがほっこりして、何て良い響きなのだろうと惚れ惚れしていた。「い」の後の、「も」のもったりした響きが、恐らく私をにやつかせてる。しかもそれを12月の年終わり、こぞってテーマに祭り上げるところまでが私のささやかな企てで、意外にもピッタリな気がしている。
TIFFもFILMeXも終わってしまったけれど、ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形 in 東京が始まったり、11/19(木)からは第17回ラテンビート映画祭、11/23(土)からは第21回TAMA NEW WAVE映画祭、12/5(土)からは東京ドキュメンタリー映画祭、12/10(木)からはフランス映画祭も始まります!
映画祭が終わろうとしているのに、絵日記が追いつかないし、眠い。映画祭は、映画を観るという行為以外に、己の体力との戦いが始まる!そして時々負けてしまう!こんなにも楽しみにしていたのになぁ。
秋ですねぇ。さつまいもや柿がおいしい季節になりました。
そして、東京では、第21回TOKYO FILMeXが始まりました!
今年は第33回東京国際映画祭と同時期に開催ということで、日比谷と有楽町と六本木を往復する日々になりそうです。
わたしは小さい頃、家電量販店にある冷蔵庫のドアを片っ端から開けるのが大好きだった。中にはニセモノの野菜や牛乳が入っていて、それが多く入っていると当たりだな、と思っていたし、紙だけに印刷された野菜やお肉はハズレだった。
日々の生活の中で、という書き出しがもうつまらなくて嫌になってくるのだけど、とにかくそういう日常から離れるようなとき、突然吹くあたらしい風みたいなものを、わたしはいつも求めている気がする。
平日の昼間に街をぶらぶらするのが好き、馴染みのない街だと更にいい。その時だけは、何にも関係のない自分になれる気がするから。街の天使の、あるいは街の幽霊の気分で歩き続ける、わたしはそのままいなくなってしまいたい。用もないのに地下鉄やバスに乗って移動し続ける。カメラを持っているわけでもないし、自分がほんとうに誰の目にも留まっていないように思える。
「抗い」という言葉を聞くと、抗ってきたことよりも抗えなかったことのほうをいろいろと思い出してしまう。わたしには瞬発力がなくて、いつもすべてが過ぎ去ったあとに遅れて怒りがやってくる。抗えなかった過去は蓄積されて、わたしを蝕んでいる気がしてくる。
12月に入ってから、今年を振り返るみたいな会話を何度かしているけれど、わたしには一年という単位で記憶を区切るのがもう難しくて、何もかもがいつのことだったかわからなくなっていると感じる。夢でみたことなのか現実で起きたことなのかわからないこともけっこうある。でも一年のムードみたいなものはなんとなくある。
ここ3ヶ月くらい、冷蔵庫が不定期にじじじじと音を立てる。ベッドから3歩行けば冷蔵庫があるような狭い部屋に住んでいるので、うるさくて眠れない。上に置いていた電子レンジを降ろしたり、壁から離したりしてみたけど、一向におさまらない。どうすれば静かになるのか誰か教えてください。
興奮するのって難しい。正しくできない。わたしは幼い頃から自分が興奮しているとき、その状態を認識したとき、いつも少し後ろめたい気持ちになった。そしてそのうちに情熱がほとんどなくなり、興奮というものは自分にとって「するもの」ではなく「させるもの」になってしまった。
友達に誘われて銀座シネパトスで『銀河鉄道の夜』を観た。7月の終わり。レイトショー。変な色の猫。細野晴臣の音楽。映画を観たあと人が全然いない銀座の街を歩いた。夏の平日の夜に銀座が閑散としていることなんてあるのかな。映画の記憶と合わさっているからか、思い出す景色がのっぺりしている。まっすぐ続く道と規則的な街灯。わたしたちはコンビニでビールを買ったかもしれない。
17時台の上り電車は空いている。大きすぎるリュックを抱えて座っているとすぐに眠くなる。目を覚ますころには新宿に着いている。いつの間にこんなに乗客が増えたのだろう。ワープしてきたみたいで楽しい。