2021年は2020年よりもずっとよく分からなかった。今もよく分からないからうまく書けないのだけど、それは日常に対する姿勢みたいなものだと思う。多分去年はまだどこか世界が変わってゆく中で、「でもこんな状況では誰もわからない、うまくできなくて仕方ない」という投げやりな気持ちと、滅亡に向かっているとしたらそれはそれで、どうせみんな一緒だという安心感があった。要するに、いろんな考えることを放棄していた。
2021年といえば、パルスオキシメーターがお家に届いて、血中酸素濃度が測れるようになった。仕事場では二酸化炭素がどのくらいあるのかを測れる機械もあり、酸素と二酸化炭素が数字で見えるようになった。吸って、吐いてを繰り返している人間の痕跡を数字で確かめていく作業は、少し秘密めいている。あなたたちの残した二酸化炭素を、私は知っているのよ、という気分。
決まってそれは、秋のおわりか、冬のはじめ。父は安く買ってきたサツマイモをアルミホイルにくるみ、さらに上から新聞紙でくるむと、庭にあるコンクリートのブロックで簡単に囲っただけの手製の炉に放り込んだ。火を付けてしばらく待ち、サツマイモを取り出す。アルミホイルをはがせば、濃い紫色のそれは、蒸気を盛んに立てて、軍手をした父がふたつに割ると、黄色い芋の中身が現れ、熱く甘い臭気が、冷たい外気に溶けてゆく。
Filmgroundは2020年の11月で、2周年を迎えました!
これまで一緒に記事を書いて参加してくれた方、そして読んでくださるみなさま、本当にありがとうございます。
これからも私たちは、映画を観て、ご飯を食べて、友達に会い、映画に出てくる人物とともに、問題を抱えたりして生きていきます。
そんな日常を忘れないように、いや、忘れてもいいように、書き続けたいと思っています。
という事で、今月は日記のように更新していきます。
ぜひ、遊びに見にきてくださいね!
TIFFもFILMeXも終わってしまったけれど、ドキュメンタリー・ドリーム・ショー 山形 in 東京が始まったり、11/19(木)からは第17回ラテンビート映画祭、11/23(土)からは第21回TAMA NEW WAVE映画祭、12/5(土)からは東京ドキュメンタリー映画祭、12/10(木)からはフランス映画祭も始まります!
映画祭が終わろうとしているのに、絵日記が追いつかないし、眠い。映画祭は、映画を観るという行為以外に、己の体力との戦いが始まる!そして時々負けてしまう!こんなにも楽しみにしていたのになぁ。
ツァイ・ミンリャン『日子』を観た。中盤に廃墟のビル(なのかもよく分からない)のカットがあって、しばらく眺めていても、なにが写っているのか分からなかった。
秋ですねぇ。さつまいもや柿がおいしい季節になりました。
そして、東京では、第21回TOKYO FILMeXが始まりました!
今年は第33回東京国際映画祭と同時期に開催ということで、日比谷と有楽町と六本木を往復する日々になりそうです。
ここ3ヶ月くらい、冷蔵庫が不定期にじじじじと音を立てる。ベッドから3歩行けば冷蔵庫があるような狭い部屋に住んでいるので、うるさくて眠れない。上に置いていた電子レンジを降ろしたり、壁から離したりしてみたけど、一向におさまらない。どうすれば静かになるのか誰か教えてください。
わたしは小さい頃、家電量販店にある冷蔵庫のドアを片っ端から開けるのが大好きだった。中にはニセモノの野菜や牛乳が入っていて、それが多く入っていると当たりだな、と思っていたし、紙だけに印刷された野菜やお肉はハズレだった。
2月26日、ソウル・アートシネマは2週間の休館に入った。 3日前の2月23日、政府がコロナウイルスの警告レベルを「深刻」段階に格上げし、感染症の拡散防止のため、密集施設の利用制限と集団行事の自粛を勧告したからである。 劇場に休館の義務はなかったが、1月25日にコロナ感染者が確認され、シネコンが臨時休館に入り、映画館は人々に危険な場所とされ始めた。
私がドライブインシアターを初めて体験したのは2018年3月、アメリカの多分オクラホマ州だったと思います。友達といわゆるアメリカ横断ドライブをしている最中でしたが、一度くらい体験してみたいなと思って寄り道しました。そこでドハマり!まず料金は映画2本立てで一人5ドルという安さ。広大な土地に来場台数3台という開放感(しかも途中で一台帰った)。ポップコーン・エクストラバターとドクターペッパーの無限ループ。タバコ吸い放題。喋り放題。寝放題。しかも寝落ちしたら朝まで寝てから帰ってもいい。
私の住んでいる三階建てアパートの隣には公園があって、休日にはいつも子供たちの賑やかな声で起こされる。気持ちいい季節には開け放ったベランダから公園を見下ろしたり、向かい側で玄関ばかりこちらに向けているコンクリート打ち放しのハイグレードマンションを眺めたりするのだが、なんだかそわそわして部屋の中に戻ってしまう。まるで覗き見でもするような位置関係だし、たぶん普段はそこまで暇ではないからだ。
ウィリアム・キャッスル監督の『ティングラー』という映画。人の恐怖が生む怪物「ティングラー」がうっかり映画館の中に放たれてしまう。当時、劇場ではいくつかのイスに座った人の座席に電気が走り、ビリビリっと来て脅かされる、という演出をしていたらしい。まるでスクリーンの向こうの映画館から現実の映画館へティングラーが飛び出してきたかのように、スクリーンの外の安全な位置から覗いていたはずが恐怖がこちらへやってくる。
正直映画を見る気分になれない。世の中がこんな状態になってしまって、気持ちが滅している。SNSで「コロナ」の文字を見たらアプリを閉じる、を自分に課すも半日続かなかった。
いつも極端なルールばかり思いつき、実行しては失敗してきた。十代の頃からずっと、何かを本気でやりたいと願ったことなんて一度もなかった。
生の実感のない人生はもはや余生だ。生まれてこのかた無常観しか持ちあわせていない。世代柄なのかわからないけど。
そういえば、海ってあるんだっけ?自粛で家に篭り続けていると、忘れがちなことが沢山あって、海がこの同じ世界にあることなんて頭からすっこりと抜け落ちていた。
2019年8月、引っ越しにまつわる色々で自分の社会的信用のなさに絶望した。身分証やパスポートをなくしていたので再発行しなくちゃいけないとか、フリーランスだから収入証明できなくて審査がうんぬんとか、いろいろ。 そんな中でハーモニー・コリンの『the Beach Bum』に出会って、そんなくだらないことに悩んでいるのがバカみたいだと思った。
明けましても全然めでたくはなかったので、年賀状のように毎年誰に向けてでもない今年の目標なんかも書けないでいた。書く意味なんかも分からなくなって。
2019年わたしは「新卒の就活生」だった。
経験したことを思い出してテーマの「時計」を重ね合わせた時に、今のわたしの核に近いような映画を観た。
付き合っている女の子が彼の母や姉に初めて会った時の、「こんな男のどこが良いの ?」は必ずその母の息子、姉の弟である彼の目の前で発せられる。即座に。それは 全く聞いていて心地の良いものだ。とても幸せな気分になる。自分に家族がいること が誇らしく思える。どんな言われようにも愛が。習慣のような。
17時台の上り電車は空いている。大きすぎるリュックを抱えて座っているとすぐに眠くなる。目を覚ますころには新宿に着いている。いつの間にこんなに乗客が増えたのだろう。ワープしてきたみたいで楽しい。
私が最初にリンクレイター監督の作品を観たのは、『6才のボクが、大人になるまで。』。主人公のメイソン・ジュニアを12年間(6歳から18歳まで)成長とともにフィクションで撮り続けているのだからびっくりする。そしてわたしは、映画を超えたものを、みてしまったんじゃないかと思った。
リンクレイターのデビュー作『スラッカー』は、タクシーに乗った青年が運転手に夢について語るシーンから始まる。彼の話はこうだ。選んだ考えも選ばなかった考えも同様に現実になる可能性がある。選ばなかった道にも人生が待っている。だけど人は1つの現実しか生きられない。だから選ばなかったものが夢になる、と。
窓は外と内を隔てるものであるけれども、同時に鏡のような存在でもある。だから、窓の外あるいは内側を眺めるだけでなく、自分がいる空間を見ることもできる。よく電車の窓で髪を直す。家の鏡みたいに。その時にふとああ隣にこんな人が立っていたのか、と思うこともある。でも鏡と違って、ガラス窓はいたるところに存在していて、そして光を通すために作られたものであって反射させるためのものではないから、誰でも窓に映る自分の姿にそこまで自覚的ではない。
わたしは今の家に引っ越すときに、ベットを解体しないまま運んでもらったので、とても大変だった。玄関から入れる事が不可能な家なので、お風呂場にある一番大きい窓から運んでもらった。わたしの家は2階で、ベットは宙吊りに。それはとても不思議な光景で、ワクワクしたのを覚えている。そのまま宙に浮いたベットで寝てみたいなぁ、とか、想像したり。
このあいだ、ギヨーム・ブラックの『やさしい人』を久しぶりに観た。この映画はヴァンサン・マケーニュ演じるマクシムの失恋と再生を描いていて、ヒロインのメロディは魅力的だが手に入らない、マクシムが失ってしまった若さを象徴するような女性として登場する。
それで、5年前に観たときはマクシムのさみしさや、以前「日記」のテーマでも書いたマクシムと父との関係が印象的だったけれど、今回は観ているあいだずっと、メロディの悲しみのことばかり考えていた。考えていたというか、なんかもう変になっちゃって、満席のユーロスペースの端っこで涙が止まらなかった。
自転車を買いました。半年ほど前から、お金ができたら買おうと思っていたのがついに買えたので、嬉しくって名前もつけた。ダホンの折りたたみ式ミニベロ、ぷーちゃん。甲州街道沿いの部屋から、渋谷のバイト先まで通勤しているけれども、地図の苦手なわたしでも迷わないくらい簡単な道のりだ。
ハイウェイというカタカナには本当に馴染みがなくて、馴染みのない言葉はしっくりくるまでに時間がかかる。日本語にすると高速道路になると思うんだけど、そう遠くまで車で出かけることもないから、使うこともほとんど無い。
私の書いた手紙を読んでくれた人から、そのまま話しかけているような文章ですね、と言われた事がある。何となく気恥ずかしかったけど、そんな文章になったのは多分、私が学生時代にひたすら日記を書いていたからだ、と思う。友達にも家族にも、悩みを打ち明けることが出来なくて、そもそも人に相談をする事が極端に苦手で、学生時代、とりわけ高校生と大学生の時、ひたすら日記に日々の思いを話しかけるみたいに書いていたから。
映画が好きかと聞かれると、いつも困る。「好きですがそんなに詳しくないです。」と答える。今回のテーマはファミレスだと聞いたとき真っ先に思い浮かんだのは、ベタかもしれないが「パルプ・フィクション」だった。
休憩したい、休憩したい、休憩したい。最近の心の中の口癖に、ふと耳を傾ける。その声は小さくて、ちゃんと聞こうとしないと聞き取れない。自分の声を、自分の声だからと思って、よく無視してしまう。すると、急に身体が動かなくなって、この日にやろうとしていた事が全く手につかなくて、一日中布団から出られず、1日の始まりも終わりもこの世からなくなったみたいに、今、自分がどこで生きているのか見失ってしまう。
ファミレスに行くと何を注文するか全然決まらない。ファミレスのメニューには実物よりもボリューム感のある料理の写真、傍らに価格とカロリーが書かれていて、わたしはそれらの写真と数字を睨みつけながらその時々の自分にとって一番ちょうどいい点を探す。ファミレスのわたしはおなかを空かせていて、お金がなくて、太るのが怖いのだ(後ろ二つは、他の店で食事するときには忘れていることもあるのに、ファミレスのメニューによって呼び起こされてしまう)。
帰り道に突然の雨に遭遇。どこかで雨宿りしなきゃと思ったとき、気になってたけど、いままで入ったことのなかったお店の前に来て、ここにしようと飛び込んでみる。
「ねえ、雨が印象に残る映画ってなにがあるかな」「どんな雨?」「どんな、って言われても雨は雨だよ」「いや、雨には種類がある。どんな雨が具体的に言われないと答えられない」「うーん、じゃあアジアの雨かな。こっちに引っ越してきてまだ半年だけど、もうイギリスの雨には飽きたから。」雨が降ったりやんだりする日曜日の昼過ぎに、天使という名前の街に住む人とこんな会話をする。
雨の日は、土や草木、アスファルトなどの匂いが普段よりも増して強く感じられる。「雨の匂いがする」とよく言うけれど、それは雨そのものの匂いではない。晴れの日には感じることのない、気にも留めない、または忘れ去られてしまったあらゆるものたちが雨に濡れることで、その存在を主張するかのように匂い立つのが雨の匂いなのだ。
雨は降る、というよりも、遭遇だ。それは、私が天気予報を見ないからだし、私の叔母は、雨が降りそうな匂いがする、なんて言って本当に雨が降り始めたりする能力を持っているのだけど、そんな力も私にはない。だから、わたしは折り畳み傘を五本、少なくとも持っている。
小さいころは自分だけの世界にいる時間がいまよりもずっと長くて、神様もいた。いや、神様と言ってしまうのは正確ではないかもしれない。わたしはしばしば生物よりも無生物に憐れみの感情を抱いていた。ベランダの手すりとか、立体駐車場のボタンの機械とか。そして、雨が降るとちょうど「かさじぞう」みたいな感じでそういう物に傘を差したり、タオルで拭いたりしていた。
冬はただでさえ寒くて、布団から出るのも億劫なのに、その上雨なんて降ったらどうしようもなく外へ出掛ける気持ちが失せる。このまま永久に、雨の音を聴きながら、布団でコーヒーを飲みながら本でも読んで、夜になったら酒でも飲んで、ずっとぬくぬくとした狭い部屋の中にこもっていたい。
たっぷりとエレガントなシルエットのコートを羽織って、さっきまでうっとり鏡を見ていた彼女が言う「大丈夫 私が買ったの 来年のお給料の半分でね」1945年のスクリューボール・コメディ『クリスマス・イン・コネチカット』で、バーバラ・スタウィンウィック演じるヒロインのエリザベスは自分で自分にクリスマス・プレゼントを贈っている。
始まりが後ろめたいタイプの愛は、だいたい冬に始まる。忘年会やクリスマスなどのイベントごと、正月を前に終わらすべき仕事の忙しさなどで恋どころではないはずなのに、始まるべきではない恋は、そんな慌ただしさの隙間をぬっていきなり立ち上がる。
子供の頃、クリスマスの朝に玄関の外に置かれているプレゼントを手にした時の、箱のつめたい感触と包装紙を開けるときの胸の高鳴り、家族といつもより少しだけ豪華な食事をしながら、テレビでクリスマスの特別番組を見ている時の幸せな気持ちはいまでも覚えている。
クリスマスといえば豪華で特別なイメージなのは確かなのだけども、金はないし貧乏くさい年末の忙しい時にどうして無理してクリスマスを祝うのだろう、とも思ったりする。
クリスマスは、冬だけじゃない。クリスマスという存在は、不意に襲いかかってくる。例えば、春、緑色のカーディガンに赤色のスカートを履いた時。夏、赤色の T シャツに緑色のデニムを履いた時。秋、緑と赤とネイビーのボーダーのセーターを着た時、に。
あたりまえだけど楽しいクリスマスばかりではない。わたしはクリスマスを正しく過ごせたことがない。クリスマスの日にはなるべく忙しく働いていたい。さみしいので。
タクシーを撮るとはどういうことか。流れる車窓だとかカメラを向けたくなるところはいろいろあるけれど、ひとまずは「後部座席をどう撮るか」と言い換えることから考えてみよう。
金があるからタクシーを使うというわけじゃない、金のことなんか到底考えることができないくらい、いま目の前で起こっていることの対処をしなければいけないほど切羽詰まっているから人はタクシーを使用するのである。
タクシーってすごく不思議な空間だ。乗った時に絶対に運転手と会話をしていて、誰かがいる状況であることを把握しているのに、後部座席で2人きりの会話を平然と続けてしまう。
自分の感情を扱いきれなくなって取り乱してしまうことが、しばしばある。そのたびに、情念の世界から身を引いて、もっと軽くなれたらいいのにと思う。