味気ないに、彩りを
最所美里
時計についてこのコラムを書くにあたり、この数日間、時計についてあれやこれやと考 え、思いを馳せてきました。すると、私と時計の間には深い確執があることに気がつきました。
数年前、我が家に新しいテレビがやってきました。画質も大きさも私にとっては申し分 のないものでしたが、デフォルトで画面左下に表示されている時間がどうにも気になって 仕方ないのです。何をしても消えない、とっておきのDVDを借りてきて観る時さえもです 。本当にショックでした。何が嫌って、単純に邪魔なだけでなく、その存在があることで 否応無く、高尚で尊いものになるはずであったその映画体験が、淡白な“現実”によって陰ることです。
「カイロの紫のバラ」のヒロインよろしく、映画の世界に救いを見出す私にとって、こん なにも辛いことはありません。 私の時計嫌いが発症したのはこの時か、はたまたもっと昔からだったか?
そんな時計嫌いの私にもありました、とっておきの時計映画。それは私の映画原体験を 彩ったジブリ作品の中のひとつ、「耳をすませば」です。
先述の通り、私の映画原体験はジブリ作品に形作られています。語り出すときりがあり ませんが、金ロージブリこそが至高のエンタメ、そう本気で思っています。そう思ってい る方、きっと他にもいるはずです。画面越しに固い握手。そんな思い出深いジブリ作品の 中で、なんといっても「耳をすませば」は外せません。私の中の青春映画の金字塔、親し み深き傑作です。
初めてこの映画を観た時、荘厳に響くカントリーロードと、ニュータウンの夜景の素晴 らしきマリアージュで始まるOPに完膚なきまでに恋に落ちました。
その後、ストーカー気質なパーフェクトボーイ、天沢聖司くん(実家が太い)や、多幸感 溢れるカントリーロードのセッション、地球屋のご主人が作る鍋うどんなど、この作中で 私は度々恋に落ちることになります。しかし、それらを上回る勢いで私の心を射止めたの は、初めて訪れた地球屋で出会う、歴史あるからくり時計です。この時計、なんの巡り合 わせか、雫が訪れたその日が修理の終了日、完全な姿でその姿を見せた最後の日でした。( ドラマチック!) 時計が12時ちょうどを指したときに現れるからくりにより、私が嫌いだ ったあの“時計”が、美しくも儚いドワーフ王国へのトリップ体験を可能にするひみつ道具 に様変わりします。このシーンの緻密な描写といったら、感嘆のため息をもらさずにはい られません。
このからくり時計のシーンは、そのクオリティから、ちょっとした劇中劇を観ているか のようです。まさに“現実”ではなく“救い”。 しかも、あの地球屋そのものが異次元空間に近い。劇中で触れられていないものを含め 、あの場、そしてそこにあるアンティークには、物体としての深みや説得力を感じます。 それはきっと、これまで経てきた長い時間が自然と生み出した価値です。
ある辞書によると、時間とは、【過去・現在・未来へと流れる一貫した方向性を持つ次元】と定義づけられています。けれど、今日の社会では、時間の【時刻】としての側面に のみフォーカスしていますよね。これは時間を線でなく点としてとらえる考えで、私には 味気なく感じられます。そして時計が無機質に示すのは【時刻】だけ。味気ないのオンパ レード。そこには何の意味も物語もないのです。ただ生産性を尊ぶ社会の中で、私たちが 物理的に豊かになるためだけにある存在。
寧ろ、露骨に現実を見せつけることで精神的な 豊かさを奪う存在。 そんな時計が、この作品の中でだけは、私に最も夢を見させる存在になる。そしてそん な希有な時計が在るあの場が、時間の真の意味を体現している。
あまりにもできすぎている、まるで地球屋だけがこの社会から切り取られた別次元の場であるかのように。