心の声怪物 VS 頑固な口元
住本尚子
休憩したい、休憩したい、休憩したい。
最近の心の中の口癖に、ふと耳を傾ける。その声は小さくて、ちゃんと聞こうとしないと聞き取れない。自分の声を、自分の声だからと思って、よく無視してしまう。すると、急に身体が動かなくなって、この日にやろうとしていた事が全く手につかなくて、一日中布団から出られず、1日の始まりも終わりもこの世からなくなったみたいに、今、自分がどこで生きているのか見失ってしまう。
そんな時、やっとの思いで外に出て、近くのファミレスに行くと、急に背筋がピンとして、自然とやるべき事に向き合える事がある。私にとってファミレスは駆け込み寺のような所であり、不思議と穏やかな気持ちになれる場所だ。
ここで私が思い出したのが、ヤン・シュヴァンクマイエル監督の『オテサーネク』という映画。この映画は、もともとはチェコの古くから伝わる民話”オテサーネク”がモチーフとなっている。赤ちゃんのように見える木の切り株が育っていき、どんどん周りの人を食べていくお話で、そんなありえなさそうな出来事を、現代でも起きてしまいそうに描いているのだ。
妻のボジェナは、子供が出来ずに嘆き悲しんでいる。見かねた夫のホラークは、木の切り株を赤ちゃんのように削り、ボジェナにプレゼントする。ボジェナはたいそう喜んで、本当の赤ちゃんのように接する。最初はただの切り株で、それこそお人形遊びのようにあやしているようであったが、本当の子供のように育てたいと言いはじめ、呆れはじめるホラーク。別荘に行く時だけ会えるようにすればいいと提案するが、毎日一緒にいたいとボジェナは頑なで、ついには妊娠したフリをし始める。その木の切り株の赤ちゃんを産んだ事にしたいようだ…。
いよいよ妊娠を経て、出産というタイミングを迎えると、ボジェナは迫真の陣痛の演技をし、見事、子供を産んだ事にしたのだ。“オティーク”と名付けられたその切り株の赤ちゃんは、その出産と同時に、なんと、動き始めるのであった!
オティークは、お腹が空いて空いて仕方がなく、ミルクもスープも大量に飲み干すほどだ。ついにはホラーク家で飼っていた猫まで食べてしまい、そして周りの人々も食べていってしまう…!
この映画を観て、とても感心してしまうのが、己の欲求に対して、とても正直なボジェナの気持ちが、オティークに伝わり、ちゃんと動き始めるところ。ちゃんと赤ちゃんとして泣き、ちゃんとお腹を空かせて、ちゃんと食べる。自分の心の声をちゃんと聞けない私にとっては、とんでもなく憧れてしまうほどの素直さだ!
そしてこの映画には外せないもう1人の登場人物、少女アルシュビェトカは、ホラーク夫妻の隣に住んでいて、この2人の動きを、家政婦は見た!ばりに目撃していく。アルシュビェトカは大人びていて、子作りの事に興味を持ったり、性的に見てくる近所のおじいさんにも敏感に反応している。子供の好奇心そのままに行動するその姿、眼差しに、ハラハラしてしまう。
ホラーク夫妻は、いよいよ周りの人を食べ始めてしまったオティークが手に負えなくなり、地下に閉じ込める。すると、アルシュビェトカはオティークが可哀想に思えて、なけなしのお小遣いをはたいてでもご飯を与え始める。しかし、子供にできる事は少なく、周りの人達を生贄にしていき、被害は拡大。ついには、ホラーク夫妻までもが食べられてしまうのだ…!
欲求の連鎖により、悲劇が起こっているにも関わらず、私はこの映画を観て、なんて正直な人しかいないんだろう!自分の思う正義だらけのこの映画に、何だか励まされてしまったのだ。
ファミレスにいる時の居心地の良さは、まさにこれだ!と思った。半永久的に飲めるドリンクバー、いつでもご飯が頼めるボタン。そして周りにいる思い思いに過ごしている人々。欲求を満たしにやってきた人達が、この世界には沢山いて、そして私はその一部なんだ!と思うと、あ、ここで生きているんだった、と思い出す。ちゃんと飲みたいジュースを選んだり、メニューを眺めて食べたいものに思いを巡らす。こんな単純な欲求は、実は幸せだし、そしてファミレスは、いつでもそんな欲求を受け入れてくれるような場所だと思える。
この映画では終始、人を真正面から捉えている。食卓を囲むシーンも、人と会話をするシーンも、まるで一人で話しているかのように見えるそのシーン達は、他の誰かの意見なんて聞いちゃいないような、自分の声でしか話していないみたい。その眼差し、口元。不気味にさえ思うそのシーンは、己の意思そのものだ。
私はきっと休憩するべきなんだと思う。
休憩したい、休憩したい、休憩したい。
と、自分の声帯を使って、ちゃんと声に出すべきだ。そんな自分を想像すると、ちょっと滑稽だけど、聞こえないようにしているよりは、だいぶ気持ちいい!
私から生まれる怪物は何だろう?休憩したいという布団の塊が、人々の休憩を食べていくのかな?そんな事が起きたらみんなにちょっと申し訳ないけど、心の中に閉じ込めてしまう怖さよりも、怪物がのこのこと生きている方が、よっぽど怖くないかもしれない!自分が今一番どうしたいか分からなくて、心の声が聞こえない人ほど、辛くて怖い気持ちを隠しているんじゃないかな?怪物はそもそも人から産まれて、ちゃんと人が倒してくれる。だから、安心して、もっとちゃんと意思を伝えて、誰かと倒していけばいい。
この映画は、オティークは殺されたのか殺されなかったのか、分からないまま終わる。そう、心の声怪物は、この世から消える事はないのかもしれない。それでも、その吐き出した怪物は、今までちゃんと向き合えなかった出来事に、気付かせてくれる。好きな人に好きと言う、嫌な事は嫌と言う。声に出す事で、あやふやになりがちな気持ちが、くっきりして見えてくるのだ。
早速わたしは、ファミレスで、マルゲリータピザを頼んで食べる。昼ぐらいからずっと食べたいと思っていたし、メニューをひと通り見ても、心の声怪物はマルゲリータピザが食べたい!と言ったから。だから私は今、幸せ。そう、声に出してみた。ほんのちょっとの声量で。