光の暴露、音の漏洩
五所純子
メラニンと呼ばれるほど黒く灼かれたわたしは陽光を嫌悪していた。太陽に閉じこめられた西の田舎から逃げた。東の都市に向かった。グレーに燻んだ昼とピンクに靄った夜が目新しく、排気ガスを深々と吸いこみ、人工照明を煌々と浴びた。愉しかった。窓のない屋根裏部屋にわざと暮らしてみたりして、ついにわたしは太陽と縁切りするのだと鼻息を荒くした。真っ赤な血尿が出ただけだった。若くて苦い思い出だ。
目覚めて最初に窓を見る。陽光が射していれば日がな一日機嫌をよくし、ミミズだってオケラだってアメンボだってヒトだって誰も彼もが死んでここに芽吹いていると気を強くする。陽光が射さずにいると塞ぎの虫が尾を引いて、あちらこちらで誰も彼もに死なれたまま停滞したようで凍りつく。じつに単純だ。高層ビルが立ち並ぶ街で道に迷えば、隙間にのぞく太陽の位置で東西南北を確かめようとする。洗濯物を外に干そうか迷ったときは、スマホに映し出される記号よりも光と風が肌にあたえる天気予報を信じている。わたしは太陽に動かされ、太陽と離別できない。原始わたしは太陽だったと言うつもりはないけれど、太陽と一体だった原始幼年時代を現代にもちこんで生きているくらいには自覚している。
ひとりの老夫が陽の当たらないワンルームに暮らす。部屋はいつも暗く、花瓶の薔薇が枯れている。目覚まし時計は毎朝8時に鳴り響き、彼は顔を洗って身支度をすませると、クローゼットからドレスを1枚選んでベッドに横たえる。明くる日も明くる日もベッドのドレスはうやうやしく取り替えられ、彼は隣に寝転がってテレビを見る。ある朝、突如として窓から陽光が差し込んできた。はじめて、あるいは約30年ぶりに、陽光が部屋を温め、萎んだ薔薇がみるみる息を吹きかえす。咲いた、咲いたよ、花が咲いた、と彼が呼びかけると、そこにいるはずの彼女がいない。妻はとっくに死んでいた。太陽が妻の死を夫に暴露してしまった。一瞬にして、まるで奇跡のように、今頃になって。
なぜ急に窓から光が差し込んだのか。日差しを遮っていた超高層ビルが崩落したためだ。ビルの名前はワールド・トレード・センター。2001年9月11日8時46分40秒、アメリカ、ニューヨーク。国際的な劇場的社会の始まりをテレビは力なく垂れ流すように放映したが、その物陰で引き起こされていた光線劇を1年後に描いたのが『11'09''01/セプテンバー11』のショーン・ペン監督作だった。妻の不在に目醒めたばかりの老夫は窓の外を確かめる余裕がなく、ましてテレビを点けるどころでもなく、けれど老夫が妻と安らかに棲んでいた集合住宅の壁は巨大影絵のスクリーンとして2度目の崩落をはっきりと映した。するりと消え落ちていく四角い影と、たちまちに巻き上がる煙状の影と。そこに音はなかった。小さな窓枠のなかで老夫がこぢんまりと泣いている。
この部屋は暗すぎる、明るくないと目覚められない、とかつて老夫はつぶやいていた。都市では光に経済格差があって、富裕者の家にはさんさんと日光が当たり、貧乏者は日を浴びる部屋になかなか手が届かない。太陽は贅沢品だ。日照が欲しければ金を稼ぐこと。さもなければ都落ちでも決め込んで太陽と駆け落ちでもすればいい。マンハッタンの老夫はテロルによって光が取り戻されたけれども、その光によって彼は妻の幻視を失った。原子爆弾によって視力を失った広島の老婦が、最後に見た光にレインボーの神を幻視したのは深沢七郎「安芸のやぐも唄」だったか。光は奪い、光は与える。
2001年9月11日の夜も、2002年9月11日の夜も、日本、東京、わたしの部屋では音を消したテレビが照明のかわりに辺りを照らしていた。パニック映画の倒壊場面のような倒壊も、地上波映画放送のような映画も、だからたまたま見つけられたにすぎない。わたしは熱心な視聴者でなく、ひとつめの夜はまたつまらない映画が始まったと画面に見向きもせず、それが映画でないと気づくのにしばらく時間がかかった。画面の右上に貼りついたままのLIVEの文字と、黒煙を吹くビルを映し続けるには作為の足りない画角に妙なものをおぼえて、ようやく音量を上げた。ふたつめの夜はオムニバス映画の何作目だったのか、黒煙を吐き上げる煙突とそれを見上げる子どもたちを地中からとらえたようなショット、それが目に留まってリモコンを探した。音量を上げるとイスラミックな旋律の女声が響きはじめたが、すぐに止んでしまった。
決定的に音を聞き漏らしているような気がしてならない。キノコ雲の映像がいつまでも無音であることに違和感をおぼえる。高層ビルの崩落音を後年になって聞いたら空々しく感じた。原子力発電所をとらえた定点カメラが爆発を映したとき、やっぱり音が聞こえなかった。音はいつも窓の外へ外へと逃げてしまい、あのときの音はいまどこを駆けているのだろう。音の速度にわたしは追いつけるだろうか。音の尻尾にいつか触れられるだろうか。
五所純子(ごしょ・じゅんこ)
文筆家。1979年生。映画や文芸を中心に、雑誌・書籍・パンフレットなどに寄稿多数。著書に『スカトロジー・フルーツ』(天然文庫)。「ドラッグ・フェミニズム(「月刊サイゾー」)、「映画の平行線」(「i-D Japan web」)を連載中。日めくりブログ「ツンベルギアの揮発する夜」を市原湖畔美術館「更級日記考―女性たちの、想像の部屋」展に出品中。