取り返しのつかない、小さな瞬間
上條葉月
窓は外と内を隔てるものであり、映画で窓越しに何か/誰かを眺める人が映されるとそこにある何かしらの隔たりのことを考える。
(今のいままで、キング・ヴィダー『ステラ・ダラス』の娘の結婚式を窓越しに眺めるステラのことについて、自分がそこに居られなくても、スクリーンに映る映画を見るようにあるいは窓の外から暖かな部屋を眺めるようにだれかの幸福を願うことについて、そしてそこからミランダ・ジュライの「最初の悪い男」についてとか、そんなことを書こうとしていたのだけれども、書いている途中でなんだかやっぱりそんな綺麗な気持ちになれなくてやめた。理想だと思っていたことが、結局そんなのは今の私には理想ではなくて言い訳でしかないような気がする。)
窓は外と内を隔てるものであるけれども、同時に鏡のような存在でもある。だから、窓の外あるいは内側を眺めるだけでなく、自分がいる空間を見ることもできる。よく電車の窓で髪を直す。家の鏡みたいに。その時にふとああ隣にこんな人が立っていたのか、と思うこともある。でも鏡と違って、ガラス窓はいたるところに存在していて、そして光を通すために作られたものであって反射させるためのものではないから、誰でも窓に映る自分の姿にそこまで自覚的ではない。
フィリップ・ガレルの『秘密の子供』は、79年、ニコと別れた直後に作られた映画だ。映画監督のバチスタにはガレル自身が、アンヌ・ヴィアゼムスキー演じるエリーにはニコが投影されている。ふたりの出会いから始まり、やがて2人は愛するがために苦しみ、薬物によって自らを傷つけ、相手を傷つけ、別れ、互いの元へ戻る。それを繰り返していく。いまだにお互いを愛し合っているものの、一緒に生きていくことができないのだ。それは当時のガレルの気持ち(であり希望)だったのかもしれない。
『秘密の子供』のラストシーンは、カフェで話をするバチスタとエリーの姿を店のガラス窓越しに映しだす長回し。しばらく会話をしていると、エリーは人に会わねばならないから少し待っていてくれと言い、店を出てゆく。すると、エリーが道の反対側へ渡ってそこで待つ男と話をする姿が、すべてこの店のガラス窓によって同じ画面上に映される。待っている間、窓に背を向け祈るようなバチスタと、外で待つ男からヘロインを手に入れるエリーが同時に映される。観客は、窓の内側と外側、互いを意識していない同時空間の2人のそれぞれの動きを重ね合わせて見ることになる。
きっと、このラストの後もしばらく、2人は同じように愛し合ったり傷つけあったりを繰り返すのだろう、と思う。だが、結局2人は一緒にいられないと思わせられるのは、バチスタはエリーのすぐそばにいるのに彼女を救える瞬間を逃してしまうこと、それをこうしてカメラが映し出しているからだ。
もしバチスタが振り返って外を見ていたら。あの時こうしておけば、と後悔することはたくさんある。きっとこの瞬間がバチスタにとってその1つになるのかもしれない。でも、彼は振り返らなかった。”あの時”の彼は逃したことにすら気がつかない。ここでいう”あの時こうしておけば”はほんの小さなこと。ただ振り返るという、些細な行動1つ。逃してしまったことすら気がつかないかもしれない、小さな出来事。席に戻ってきたエリーの様子がおかしいことに気づいて、彼は“今ならまだ何とかなる”と思っただろうか。でもそうしたことの積み重ねで、私たちは簡単に取り返しのつかない地点にきてしまう。
映画では、私たちはスクリーンを通してのぞき見る、その物語のみるべきたくさんの瞬間に間に合ってしまう。しかし現実はそうはいかない。スクリーンの自由自在な時空間とは違って、ひとつの窓から見える景色は限られている。バチスタは、彼女が崩壊してゆくのを、すぐそばにいても見逃してしまう。私たちは必要な時に必要なものを見られるわけではなく、後になって知っても、ふたたびそこへ戻ることはできない。ガレルがニコとやり直せなかったように。
ガレルがこの窓越しの長回しで映し出すのは、後になっては取り返しがつかない瞬間も実はひとつの空間に、手の届く場所に存在していたのだという現実のとてつもない残酷さであり、私はそのやりきれなさに絶望する。