Shall we bury a time capsule together?
住本尚子
リチャード・リンクレイター監督の作品を、そう多くは観ていないから、沢山のことを知らないままに、書こう。誰もが通る、途中までしか知らないもどかしさと共に。
私が最初にリンクレイター監督の作品を観たのは、『6才のボクが、大人になるまで。』。主人公のメイソン・ジュニアを12年間(6歳から18歳まで)成長とともにフィクションで撮り続けているのだからびっくりする。そしてわたしは、映画を超えたものを、みてしまったんじゃないかと思った。だってそこにはほんとうの12年間が映し出されているから。そして、フィクションの中の家族たちも同じように歳を取り、まるで私たちのように生活をしている!
映画を超えるってどういうこと?と思うかもしれないけれど、わたしは映画に対して一種の期待があるんだと思う。私の住んでいる今この日常とは違う、どこかに住んでいる誰かが、私と同じように悩んでいたり、孤独にさいなまれたりしていて欲しくて(歪んだ欲求です、すみません)、というか、そんな人だらけだと勝手に思い込んでいるから、映画にそんな理想的な人物像が現れた時、わたしは歓喜してしまっている。ほら!わたしだけじゃなかった!って。
そして、映画では人生の一瞬の出来事が、あたかもその人のハイライトのように描かれるわけだから、登場人物たちは、いつまでたっても色あせない。その先も続く彼ら、彼女らの人生を、わたしたちは想像したり、想像しなかったりできる。観る側にゆだねられている感覚が心地よくて、わたしはいまだに映画に没頭してしまう。
だけど、『6才のボクが、大人になるまで。』に出てくるひとたちは、私と一緒で、ちゃんと歳をとる。人生の一瞬どころか、もはや人生そのもので、当たり前のことのような家族とのやり取りが、物語になっている。え、じゃあ私の家族との会話も、人生も、物語じゃん!と感じて、あれ?これ、映画なの?わたしは今映画を観たの?という感覚になって、これは、人生そのものなのでは?映画じゃないじゃん!という境地に達したのだった。
『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』を観たときも、『6才のボクが、大人になるまで。』とはまたちょっと違うけど、こっち側の、画面の中に住んでいるとは思えない人たちばっかりだった。高校時代に部活のみんなで全力で遊んだこととか、それがだいたい言葉で説明すると『友達と焼き肉を食べた』で終わってしまうようなことなのだけど、そんな言葉ではすまない程の膨大な大切な思い出があることを、肉を貪り食った事を、リンクレイター監督は知っていて、そしてそんな大切な時間を、わたしはいつしか忘れ去ってしまっていることを思い出すのだ。
リンクレイター監督の作品は、タイムカプセルみたいだ。
自分の人生と並行でありつづける些細な思い出は、いつしか自分の記憶の奥底に埋まってしまって、そんな記憶があったことさえ忘れてしまっている。でも、いざ開けると、たいてい大したものは埋めてないことにびっくりするのだけど、そこから思い出されるあらゆる思い出は、すごくかけがえなかったりするんだよなぁ。
いつかリンクレイター監督にお会いしたら、「Shall we bury a time capsule together?」なんて口説いて、よく知らない土地で、わけの分からないものを埋めて、不意に思い出して掘り起こしたいと思っている。その時は、みんなで何かを埋めようね。
ビフォアシリーズをみていない私は、まだかけがえのないものを忘れたままなんだと思う。いろんな人に最高だよ!と言われているから、間違いない気がする。
きっと、今の私に見るべきだと言わんばかりの怠惰で見逃しているのだから、また何かが掘り起こされるに違いない。忘れ去られてしまった、私の大切な記憶と出会うのが楽しみだ。