聴こえない声に、触れる
住本尚子
小さい頃、動物全てがなんとなく苦手だった。何を考えているか分からないし、かわいいと思うことでさえ、何となく上から目線な気もした。そんな態度だと動物に失礼だと思っていたから、ずっと他人行儀に接することしか出来なかった。犬を飼っている友達のお家に遊びに行った時の友達の戯れ方がもう狂ったように見えていていたし、犬がグニャングニャンになる姿を見たとき、この犬はこの扱いをどう捉えているのだろうか…とかばかり考えてしまっていた。もし私が犬だとしたら、あんな事されたくないかも…と、自分を投影しては、人間と距離を置こうとする動物の姿を勝手に想像していた。今じゃあ狂ったように戯れたいと思うから、不思議なのだけど。
ウェス・アンダーソン監督の『犬ヶ島』には、私が昔想像したような人間と距離を置く、チーフという名前の犬が出てくる。色は真っ黒。野良犬として生きてきたのもあるし、他の犬は飼い犬だったのもあって、距離がある。そう、犬ヶ島という名前のタイトルにもあるように、この映画には犬が暮らす島がある。けれど、そこに暮らす犬は、ドッグ病が蔓延しているメガ崎市の市長である小林市長が追放した犬たちだった…。(メガ崎市というネーミングセンス!)罪もなく集められ、放って置かれる犬たち。病気を治そうと新薬の開発をしている渡辺教授の努力も虚しく、犬の追放は止める事が出来ない。どうやら大人たちの陰謀があるようだ。
その追放の犠牲になった一匹に、スポッツという犬がいる。スポッツは、小林市長が養子として迎え入れたアタリという男の子の護衛につく仕事をしていた。そのスポッツも、犬ヶ島へと追いやられてしまった。そしてそのアタリくんが、スポッツを探しに、一人で犬ヶ島に小型飛行機で探しに来るところから、話は進み始める。
この映画はストップモーションアニメだ。人間も、犬も、いちから手で作られて、少し動かしては撮影されている。だから、ひとつひとつの動きに温もりを感じるし、それは声にも影響している。アタリくんの声が、とても柔らかい。日本語で、スポッツと初めて会話をするシーンは特に、スポッツの心の中にそっと届くような囁くような声だ。スポッツは人間の言語が理解できる機械を耳につけて、その声を聞いて目がウルウルしていく。言葉も声も優しいアタリくんの声が、きっと嬉しかったんだろう。アタリくんも、スポッツの言葉を理解し、どちらも目がウルウルしている。そしてこちらもつられて思わず目がウルウル…。
犬の声は、鳴き声は聞いたことがるけれど、具体的に何を言っているのかまでは理解できない。いぬのきもちという本があるくらいに、私たちは犬のことを理解したいとずっと思っているのかもしれない。なんとなく嬉しそうだったり嫌そうだったり、表情や動きや、鳴き声を聞いて、私たち人間はどうにかコミュニケーションを取ろうと努力している。果たして人間は人間に対してそれほどまでに理解しようと思っているかな?
今年の7/7(sun)に『クィア・アニメーション201Q』という、LGBTQをテーマにしている(とは言っても違う捉え方も出来る!)アニメーションを上映していたので観に行った。
そこでは、『マニヴァルド』(シンティス・ルンドグレン|2017|クロアチア/カナダ/エストニア|)という、こちらはおそらくキツネが擬人化している手描きアニメーションで、男の子が洗濯機を修理にやってきたマッチョな男性に恋をするものの、その男性は母親にも手を出していて…という内容をコミカルに描いていたり、『アイライクガールズ』(ディアン・オバムサウィン|2016|カナダ|)では、ロトスコープで描かれた人間みたいな犬や動物が、些細なやりとりのショートストーリーを繰り広げて行く。どちらもクスリと笑えるユーモアがあったし、悩んでいる姿さえ可愛らしいのだ。だけど人間のカタチをしていたら?その物語は一気に私たちの生活となり、知ってるみたいに観ちゃわないかな?
いぬのきもち、どうぶつのきもちが分からないからこそ、私たちは理解しようと努力するし、耳を澄ませて聞こうとする。そんな私たちの習性なのか、人の気持ちを代弁させるような動物たちのアニメーションは、より感情が伝えやすいし、伝わりやすいように思う。
わたしは『犬ヶ島』の野犬、チーフに自分の気持ちを投影させた。どこにも属せないような孤独感とか、不器用にも人間と上手に関係を築けなかった所とか。言い訳をしながらも、チーフはアタリくんの投げた棒を、「取ってこい」と言われて取りに行く。その後アタリくんから撫でられて、ギュッと抱きしめられた時、チーフの中にある、孤独感とかがスッと無くなっていったように見えた。犬と人間は共に生きるために、ずっと信頼関係を作ってきた。犬は人間を慕い、人間も犬を尊重する。それは言葉以上の触れ合いで、体温で築きあげられた関係性のようにも思う。
わたしが動物をどんどん好きになっていったのは、友達のお家に住んでいる、猫や犬と触れ合うようになったからだった。あちらからぺろぺろ舐めてくれたり、こちらが撫でたりしているうちに、安らぎを覚えて、このまま大切にしてあげたいと心から思った。アタリくんがスポッツを助けたいと思ったように、そして、チーフに対しても。
なかなか人間は人間に触れることがない。わたしも特に好きでもない人を触りたいとも思わない。けれど、握手とか、なんなら直接的に触れないまでも、相手の目線や声に触れるだけでも、世界は大きく変わる気がする。
『犬ヶ島』は犬が排除されていく話だけれど、この映画は明らかに今の世界、もしくは日本を描いている。関わるべきでないと決めつけて、排除をしようとするところとか。もし今、あなたの中に、何かしらの偏見があるとして、その偏見は何処から来ているのだろう?実際に相手と話したのかな?大抵は触れもせずに勝手なイメージばかりが膨らんでいき、いつしか悪い人だとか、理解できない人種だとかの話になっていないだろうか?
チーフは石鹸で洗ったら、真っ黒な犬だと思っていたら、白いブチの模様のある犬だったり、小林市長は悪役だけれど、ちゃんと反対の意見を持つものに対して、リスペクトを持って話を聞いた。そんな風に、私たちは理解しようと少しでも思えれば、相手の知らない部分を見つけられて、争うなんて事にはならないんじゃないかなぁ。
わたしがもし生まれ変わって犬になったとしたら、今のわたしなら、人間とうまくやっていけるような気がする。いぬのきもちは未だに分からないし、人間の気持ちだってそんなに分かるもんじゃないけれど。だけど、理解したいとか、寄り添ったり、尊重しあえれば、わたしは人間としてでも、人間とうまくやっていけると、信じている。