(酔ってむかえた朝の日記)
上條葉月
ツァイ・ミンリャン『日子』を観た。
中盤に廃墟のビル(なのかもよく分からない)のカットがあって、しばらく眺めていても、なにが写っているのか分からなかった。じっと見ていたら、途中通り過ぎる猫の向きと大きさから想像していたよりも大きな建物だということはわかったが、画面全体がビルに寄ったその1カットでは全体像はつかめない。その掴みどころのなさは、まさにこの映画で描かれること全体を通して私が感じたことかもしれない。
自然の風景、街の喧騒のなかで断片的に描かれる男2人の日常。野菜を切る男をぼーっと見つめながら、この人は何を考えているのだろうと思った。料理や移動の過程や、お灸やマッサージ、誰かとあるいはひとりで眠る時。決して見知らぬ光景でも特別な出来事でもないのだけれど、その間彼らがなにを考えているのか、私にはよく分からなかった。
それは描かれている2人の男たち同士のあいだでも同じ。映画全体のなかでも最も時間をかけて丁寧に描かれている、2人のつかの間の肌の触れ合い。彼らが互いを理解しあっているように見えても、それは金銭的なやりとりによる関係だ。思いやることはできても、いっときの関係だけで互いの気持ちを計り知ることはできない。客は全ての清算後、オルゴールを贈る。そこで優しい時間が流れたのは確かだが、それがその後男娼の生活の孤独のなかでどんなふうに鳴るのかを、彼が知ることはない。
日常感じる孤独といったテーマは普遍的で身近なものだけれど、孤独は結局のところ他人が共感しえないものだから孤独だ。スクリーンに隔てられた向こう側がファンタジーだろうと現代社会であろうと、私たちの前に映るのは断片的な世界であり、その人々のすべてを理解することができない。でも現実世界でだって、他人の人生に断片的にしか触れることができないというのは同じこと。だからスクリーンを通して、簡単に他者を理解できるという考え自体が所詮は自分の奢りなのだとはっとする。
思えば私は自分の好きな人たちが普段何をしてるのか、何を考えてるのかよく知らない。悲しい。だけど永久に分かり合えないと承知の上でそれでも理解しようとし続けることでしか、一緒に生きてはいけないんじゃないのかしらん。他人の気持ちは決して理解することができないこと、理解できないうえでそれでも関わり合うこと。むむ、いや、私が酔ってるのか、本当にそんな映画だったっけ?