空の目、土地の匂い、永劫回帰としてのウロボロス
青柳菜摘
空はこちらを見ている。空のことを、天とも言う。天には神さまがいたりする。
気とも言う。空気や大気も空の一部である。
なにもないことを示すこともある。それは同時になにかが入る余地があるということも意味する。
日本語の空、には、そうした別の世界を示す天としての空と、なにもない虚としての空、相反する意味が同居している。しかしどちらも別物なのではなく、「空」ということばを介して、まったく別の意味の同じ存在を示している。
空を見上げたとき、わたしは匂いを感じる。
雨の日、しっとりとした土や苔が青く香る。春のあたたかさが蒸気になって立ちこめる。匂いが、土地が持つ過去の記憶と結びついて、懐かしい、という感情を起こさせる。その記憶は実際にあった思い出と深く結びつくわけでもなく、わたし以外の多くの人たちにも潜在的な記憶として、匂いというかたちとなって現れている。
そう思うと、空には匂いという土地の記憶が混じっているのではないか。空を見上げることは、匂いによって、見知った土地と見知らぬ土地を結びつける目線を送る行為なのではないか。
家のなかで空を見上げる。
すると、天井がなくなって遠くの空が見えた。
土地の匂いは漂ってこなかったけれど、空を見上げる自分の目線が、ある映画を思い出した。
*
上空の高いところから見下ろしている。
波立つ海が見える。
波は砕けてしまうのではなく、白いしぶきをあげながら海原にかえっていく。
巻き戻されているのだ。
わたしは空の上からじっとして、巻き戻っていく波を見ている。
時間帯をあらわす英語が画面に大きく表示される。
NOON
同時に、声がする。
読み上げる単語は、映されている英語ではない。
聞き覚えのない言語だ。
たしかそれはもうほとんど使われなくなってしまった言語だった。
だからほとんどの人は、声が発する本当の意味はわからないまま、言語の音を聞く。
画面に映る。
DUSK
その音は、映っている文字と近い意味なのだとわかる。
年月日や、時計が指し示す時間ではなく、昼、夕暮れ、空の色みがかわる時間の呼び名。
青年が家に入っていく。
家族ではない人たちが大勢集まっている。
青年が家に入っていく。
テーブルで食事をとり、キッチンに立ち、トマトは包丁で切られていると思ったら、もとのまんまるに戻る。
こうして、ときに時間が巻き戻り、進み、また声がする。
空から撮られた景色。
建物は壊れて、家のかたちをとどめていない。
バラバラに砕けた景色がずっと先まで続いている。
がれきになった家の上に立っている人がこちらを見ている。
*
わたしがいま見上げている、わたしの家の天井は壊れていない。
だから家のなかで上を見ても、空が見えることはない。
でもいまこの映画を思い出さずにいられず、空を見ずにはいられなかった。
「ウロボロス――ガザから始まる実験的トラベローグ」、これが、思い出した映画のタイトルだ。
バスマ・アルシャリフが何年もかけて2017年に完成させ、2019年に恵比寿映像祭で上映された。
今年もつい先日再上映されたばかりなので、まだはっきりと瞼に残っている人が多いだろう。
わたしは2019年に観て、こうしていま思い出している。
ウロボロスはみずからの尾を噛んだ蛇のすがたを示す。
それははじまりもおわりもなく、生と死が反対の意味をもつのでもなく、すべてが同じくして繰り返し続ける、完全な状態。
終わった、という一回性ではなく、ニーチェの言う「永劫回帰」が、この映画のなかにある。
再生され、巻き戻される。
映画によってつくられた時間は、戻す、ということが必ずしも肯定的な意味だけを持つわけではなく、繰り返すことそのことを、ただただ「空」から見るということを経験させる。
ガザ、モハーヴェ砂漠、マテーラの洞窟住居、ブルターニュの邸宅。パレスチナ問題、アメリカ先住民、ファシズム、植民地主義の歴史にかかわる土地が、画面に映される。
もちろん、ガザをドローンで撮影した映像は言葉を失うものだが、ほかの土地は繰り返されてきた膨大な歴史の積み重なりが凄惨な様子として映されるわけではなく、繰り返されてきたことが空気に含まれた匂いとして、観る者の目の前に現れるのである。場所が持つ背景に気づいたとき、その景色を目の前にしたわたしたちは、現在をどう見ているのかということに、直面することにもなる。
ニュースやSNSでいま起こっているガザでの虐殺を目にし、知ることとは異なる方法で、わたしは映画から、現状を目の当たりすることになる。ひとつの問題ではなく、各地で起こってきた歴史とともに。それがたとえ2017年以前に撮影されていたとしても、すべては現在に照射されているのだ。
俳優を起用していないこの映画では、歩く人が、家のなかにいる人が、ある意味空虚にも見える邸宅で演奏する人が、本来映画の世界観に合わせて演じるわけではなく、時間を失った歴史を、自由に、身体に容れる存在のようにも見える。それは、「空」が相反する意味を持ち合わせるように、なにもないと同時になにかがあることと通じるようでもある。
虐殺を止めるべきだ、しかし自分はどうしたら、いったい何ができるかと苦しみ悩むわたしのような人は、きっと、声を出せない分見えてこないけれど、とても多いだろう。
何かしなくてはと思うほど動けなくなってしまう人も多いだろう。
できる限りの寄付をして、絞り出せるわずかな言葉を送るべき場所に送って、それでも悩みながら、すべての情報に目を通せないほど苦しんでいる人もいるだろう。
自ら積極的に動き、他者にはたらきかけるよう発信し、ガザの情報を伝えようと日本語に翻訳している人が出してくれる切実な情報に目をこらして読み、見て、知る。
そういうなかで、この映画は、こうして言葉にできず苦しみ続けてしまっているわたしを一時的にでも解放して、立ち止まって現状を考える時間を与えてくれた。
日本語字幕はないが、「MOMENT!」*で映画をレンタルもしくは購入できるので、悩んでいる多くの人に観てみてほしい。
* MOMENT!は、マルセイユを拠点として2006年に設立された映画の制作、出版、配給を行う会社。「ウロボロス――ガザから始まる実験的トラベローグ」をオンデマンド配信している。https://vimeo.com/ondemand/ouroborosvostfr
青柳菜摘 Natsumi Aoyagi
1990年東京都生まれ。リサーチやフィールドワークを重ねながら、観察、記録、物語をめぐる作者自身の経験を表現することをめざして、その不可能性を記録メディアでいかに表現するかを主題に取り組んでいる。近年の活動に個展「亡船記」(十和田市現代美術館, 2022)、オンラインプロジェクト「TWO PRIVATE ROOMS – 往復朗読」(2020-継続中)、第10回 恵比寿映像祭(東京都写真美術館, 2018)など。詩集『そだつのをやめる』(2022)で第28回中原中也賞受賞。コ本や honkbooks主宰。