みんなでぽかんと空を見上げる
こばやしのぞみ
日々の生活の中で、という書き出しがもうつまらなくて嫌になってくるのだけど、とにかくそういう日常から離れるようなとき、突然吹くあたらしい風みたいなものを、わたしはいつも求めている気がする。ケリー・ライカートの『Showing Up』で、鳩が飛んでいった空をみんなで見上げるシーンが、まさにそれだった。大きな変化は起こらなくても、ふと目線や尺度が変わって空気が軽くなるような瞬間。
『Showing Up』でミシェル・ウィリアムズ演じる彫刻家のリジーは、常にイライラしている。彼女は全然笑わないし、なんだか歩き方からして不機嫌そうな感じがする。彼女のイライラにはいくつもの、そして複合的な原因がある。
まず、自宅のシャワーのお湯が出ないこと。夏なのに家でシャワーを浴びられないだけで相当なストレスだろうが、リジーの場合は問題がもう一つある。それは、リジーの部屋の給湯器をいつまで経っても修理してくれない大家が、美術大学の同僚のジョーだということ。ジョーは、アーティストとしてリジーよりも注目されており、人気があって友人も多い。さらに、「先見の明があった」故に不動産を購入しており、経済的にも安定している。リジーはどうしてもジョーのことが気になってしまう。
それから、雑用に追われて制作に集中できないこと。勤務先の大学でのこまごまとした仕事、猫の世話、そしてその猫が怪我をさせた鳩の世話まで、彼女はしなくてはならない。更に、別々に暮らしているものの、いろいろな問題を抱える複雑な家族にも頭を悩ませている。兄は精神的に不安定になっており、隣人が電波を阻害してくるなどと発言してリジーを心配させるが、同じ大学で働く母親に相談しても、「あの子は天才すぎて理解されないの」などと言って真面目に取り合ってくれない。父は家に見ず知らずのヒッピーのような男女を住まわせていて、リジーはそのことに強い嫌悪感を覚えている。
そして、一番リジーをイライラさせているのは、たぶん彼女がすごくまじめでまともな人間であることで、そういう性格ゆえに楽に生きられないのだろうと思う。
そんな状況の中で、リジーは自分の個展に向けて作品を制作しようとしている。彼女は、制作だけに集中できる時間があれば、もっとすばらしい作品を作れるのだろうか。ジョーのように成功できるのだろうか。たぶん、リジーにそんな時間は永遠に来ない。現代社会の中で労働者として生きていたら、すべての時間が細切れなのだ。細切れの時間の中で何かを積み重ねていくしかない。
リジーの作品も、いろいろなものに邪魔されながら積み重ねた小さな作業からできている。うまく焼けなかった作品に対して、リジーは「ぜんぜんよくない!」と言うが、結局個展には出している。リジーの作ったものには、ある種の切実さがあるように思えるが、制作の環境に影響を受けているとしたら、それがいいことなのかどうかはわからない。別にこれは、生活が作品に反映されていてそれもまたいいよね、みたいな話ではない。
映画の終盤、小さなギャラリーでリジーの個展が開催される。そこには、両親も、兄も、ジョーも、そして鳩も来ている。
この映画において、怪我をした鳩とその回復は、ひとつの重要なモチーフになっている。リジーは、初めはジョーに押し付けられて嫌々世話をしていたが、だんだんと鳩に愛着が湧いてくる。鳩を丁寧に看護するのはリジーのやさしさを示しているが、一方で自己憐憫にも見える。感情をあまり表に出さないリジーは、傷ついた自分の心と向き合う代わりにをかわいがっているのではないだろうか。だから、鳩がジョーの元へ行ったあとも、リジーは鳩を気にし続け、ジョーが鳩を大事にしていないのではないかと不安になる。そこにも、リジーはジョーと自分との関係を投影しているようだ。
リジーの個展にジョーが連れてきた鳩は、子どもたちに包帯を解かれて飛んでいってしまう。ギャラリーにいたみんながそれぞれの問題を抱えながらも、とりあえずぽかんと鳩を、というより鳩が飛んで行っていなくなってしまった虚空を眺めることで、その場の空気が一瞬にして変わる。そして、鳩の怪我がいつの間にか治っていて、空へと解き放たれたことは、なによりリジーの気分に変化をもたらす。
ここでみんなが眺めていた空は、『PERFECT DAYS』(同じ時期に観たのでどうしても思い出してしまう)で役所広司が昼休みに毎日見上げる空とは、全然違うと思った。現実の問題を覆い隠しているのではない。実際の状況が何一つ変わっていないように思えても、些細な変化が人々のなかに小さな波を起こしている。
ギャラリーを抜け出して二人で歩いていくリジーとジョーを、鳩の目線から捉えたショットには、そんな小さな変化を見逃さず、それによってよい方向へ向かうことを信じるような、希望を感じた。