もう存在しない旅
上條葉月
2020年にフランスに行った時、ジャン・ジュネのタイトルでしか知らないブレストという町に行った。現地の人の車に乗せられるがまま、気づくとあたり一面畑の中の田舎の馬小屋にいた。夜になると、何もない場所に一体どこから?というほど若い人たちがわんさか集まってきて、とても楽しい一夜を過ごした。でも楽しい勢いそのままに明け方には移動だ。ここにタクシーが来るから待て、と言われ、朝5時の畑のど真ん中に置いていかれると、突然、急に全てが静寂に包まれた。現れた車で運ばれ人気のない空港に着いた頃には、まるでさっきまでが全て夢だったかのような、不思議の国に迷い込んでいたんじゃないかという気がしてくる。多分もう一度行こうとしても辿り着けないだろうし、あの日出会った人たちのそれからを知ることはできない。それでも、もうあんなに楽しい夜は二度とないかもしれない、という、記憶というより、めちゃくちゃおかしな夢を見たあとみたいな強烈な印象が残っている。あれはジェネシス・P・オリッジが亡くなった日だった。
昔付き合った人やもう会わない同級生たちといった旅行のこと、その後一切会っていない旅先で出会った人のことはだんだん思い出せなくなる。思い出が生活と地続きじゃなくなるからだと思う。『去年マリエンバートで』みたいだ。「あなたに、去年、マリエンバートで会いましたね。」「いいえ。」10代の終わりくらいに、長崎と博多に行ったはずだけど、長崎のどこに行ったのか全く思い出せない。どうやって移動したのかも忘れた。飛行機に乗った気もするけど夜行バスに乗ったような気もする。唯一、一緒に旅行していた当時の恋人と喧嘩してホテルを飛び出し夜中に長崎の港を一人で眺めていたことは知っていて、だから私の長崎は夜の港でしかない。知っていて、と書いたのはインスタに夜の港の写真をあげてたからというだけで、本当は全然覚えてはいない(ごめんなさい)。そもそも本当にあれは長崎の港だったのだろうか?夜中に一人で知らない港を眺めていたなんてセンチメンタル過ぎて記憶として信用できない。思い出して遡ったらその投稿もとっくに消していた。もう確かめられないまま、私の長崎はどんどん遠のいていく。「あなたと、10年前に、長崎の港で喧嘩しましたね。」「いいえ、10年前に長崎には行ってません。」離れている間に記憶は自分の中だけで塗り直されて、2人の記憶はもはや噛み合わないだろう。映画みたいに運命的に再会することもないので噛み合わないことの確認すらできないまま、ただただ自分の不確かな記憶をよすがにする。
ロラン・バルトは写真が「かつて そこに あった」ことを語りかけてくるものだと言うが、そもそも自分ではあまり旅行中に写真を撮る習慣がないし、保存して見直す機会もない。写真がなければ、本当にそこにかつていた自分に見つめ返されることもない。さようなら、知らない土地にいた、いつかの私。
(でも、先日まで京都にいて、行くたびに顔を出してるバーに行ったら、知人が注ぎ替えてずっと使っているボトルに一昨日の日付で自分の名前を見つけた。覚えてないけど、一昨年のこの日に、私はここにいたんだなと思った。そうやって、かつてそこにいたことを確かめられるのが面白いと思った。)
ロブ=グリエなら『不滅の女』も旅先の話だった。休暇で訪れたイスタンブールで謎の女と出会い、そして男が女の跡を辿って彼女のいない街をさまよう話だが、これもまた記憶が個人の中にしかない以上正しい過去など存在しない。男は消えた女、死んだ女の痕跡を辿るが、結局は「そんな女は存在しなかった」と周りの人々に言われてしまう。旅先での記憶はただでさえ確認できる手立てが少ないけれど、相手がもう自分の世界にいなかったらどうやって2人がたどった足跡を証明できるのだろう。でも別にそれでいいとも思う。過去のことを思い出すのは嫌いだ。全部忘れながら生きていたい。すべての人に忘れられて痕跡を残さず死にたい。でもそれも本当はちょっと寂しい。世界でたった一人だけ、自分と歩いた気配を永遠に感じていてくれたら。『不滅の女』はそんなわがままな人間の願いが映し出された映画、あるいは映画のなかにしか存在しない完璧な愛だと思う。そして、忘れていく旅の記憶は、少しそれに似ている。