「ねえ、雨が印象に残る映画ってなにがあるかな」「どんな雨?」「どんな、って言われても雨は雨だよ」「いや、雨には種類がある。どんな雨が具体的に言われないと答えられない」「うーん、じゃあアジアの雨かな。こっちに引っ越してきてまだ半年だけど、もうイギリスの雨には飽きたから。」雨が降ったりやんだりする日曜日の昼過ぎに、天使という名前の街に住む人とこんな会話をする。そして、天使のような、とにかく口の大きい男の子は、口をさらに大きく動かして、こう答える。「ツァイ・ミンリャンの楽日」実はまだ観たことないや、西瓜はずいぶん昔に観たけど、とアタシは答える。
本当はバービカンセンターで開催されている恋人たち、と名付けられた展覧会に行く予定だったけど、アタシたち(またはアタシが) あまりにも二日酔いすぎるので、その予定を辞めて楽日を観ることに決める。なんせ外は雨が降ってるし、天使という名前の街から出るのがあまりにも億劫で。
そしてテレビをつける。楽日。冒頭のシーンから雨が降っている。雨降りの日の、場末の映画館。アジアの雨が恋しい。どこまでも濡れている。乾くことなんてないんじゃないかって勢いのくせにシトシトと降る、あの湿っぽい雨が。アタシはわあ本当だ、雨しか降ってないや、これは確かにアジアの雨だ、記憶力いいねーとかなんとか言いながら、おそらく数分もしないうちに寝てしまっていた。アタシが観たいと言い出したのにハッと起きた頃には映画は中盤で、映画館のなかが映し出されていた。でも、映画館の中のシーンなのにも関わらず、雨は降り続けていた。というのも、どうやら映し出されている映画館は閉館の前日のようで、どこも修復されることなく雨漏りがすごいのだ。映画館で働く足の悪い女性と、もう一人の男性が交代で雨漏りの下に置かれたバケツの水を捨てる。室内のなかまで雨が浸透しているなんて、これは確実に雨の映画だ、と改めてしみじみする。隣にいるこの子はすごいなあ。そして気づいたらアタシはまた眠ってしまう。外の雨の音なのか、映画の中の雨の音なのかもう区別がつかなくなる。アタシは雨の音に紛れてつかの間、やっと子供のようにすやすやと眠ることができる。いろんなしんどいことを忘れて。
雨は人々を無名にさせる。音は雨の音と一緒に地面に吸い込まれ、傘やレインコートで人々は覆われる。それを象徴するかのように、この映画の登場人物はみんなそろって無名だ。映画館で働く中年女性、タバコを吸いながら映画館を徘して男を物色するひと、かつての映画スター、化粧の濃い女。こうした得体が知れない無名の人々が集う、閉館間際の雨降りの日の映画館。 夢か現実か区別のつかないぼんやりとした頭で、静かで汚れきった映画館の美しさに見惚れてしまう。でも、なぜか(たぶん二日酔いのせいで)何も頭に入ってこない。アタシも得体のしれない女になりたいな、とふと思う。美人にもキャリアウーマンにもなれない、映画監督にだってなりきれない、映画を観ようとしながら横にいる人の柔らかい体温と雨の音に誘われて、ついウトウトしてしまうため一本の映画すらきちんと観ることができない。そうゆうタイプの極端にだらしのない人間であってしまう自分への、柔らかい肯定であるかのようにツァイ・ミンリャンの楽日は言葉すくなげにゆっくりと進んで(あるいは停止して)映画は続く。それはまるで、台湾にある本当に閉館間際の映画館を借りて作られたこの映画のなかで、汚れきった何よりも美しい映画館が永遠に生き続けていくかのように。
そんなことを考えていたら口の大きな男の子は、横たわってダラけているアタシの顔を覗き込んでこう言う。「僕ね、数ヶ月前まで映画館で働いてたんだよ。」へー、アタシも日本にいたとき映画館で働いていたんだよ。一緒だね。グレーの空からシトシトと降る冷え冷えとした雨と、暖かい部屋の中のコントラストがなぜか罪悪感を感じさせる。無名の身体。アタシはまだこの人のことを何も知らない。あとついでに、天使の口がこんなにも大きいなんて、知らなかった。