自分を呪いから解放する
こばやしのぞみ
このあいだ、ギヨーム・ブラックの『やさしい人』を久しぶりに観た。この映画はヴァンサン・マケーニュ演じるマクシムの失恋と再生を描いていて、ヒロインのメロディは魅力的だが手に入らない、マクシムが失ってしまった若さを象徴するような女性として登場する。
それで、5年前に観たときはマクシムのさみしさや、以前「日記」のテーマでも書いたマクシムと父との関係が印象的だったけれど、今回は観ているあいだずっと、メロディの悲しみのことばかり考えていた。考えていたというか、なんかもう変になっちゃって、満席のユーロスペースの端っこで涙が止まらなかった。
メロディは、マクシムに出会ったばかりのころ、自分を動かす力が自分の中にはない、と言った。そんなメロディにマクシムは、君を愛する人の存在が君を変えるかもしれないよ、と返すけど、そんな夢みたいなことあるはずがないとメロディにはわかっている。
どんなに深い愛も、わたしのこの問題を解決できない。それでも毎回、期待する。勝手に期待して勝手に失望する。さらに悪いところまで落ちる。
(マクシムがメロディを窓越しに見つめる場面が二度ある。この映画ではいくつかの同じモチーフが前半と後半、つまりマクシムとメロディの甘く親密な時間と、銃が持ち込まれた後の不穏な展開の中にそれぞれあらわれるが、マクシムの窓越しの視線というのもその一つだ。前半では、マクシムは雪の降る中、頬を真っ赤にしながらダンススクールで踊るメロディを見つめる。メロディはマクシムに気づき、アイコンタクトをする。その後マクシムはダンススクールに入っていき、変なダンスをしてメロディを笑わせる。後半にこのモチーフが出てくるとき、メロディはすでにマクシムの元を去り、かつての恋人イヴァンと過ごしている。大きな窓のあるレストランで食事する二人を、外から銃を構えたマクシムが見据える。今度はメロディがマクシムの視線に気づくことはない。マクシムの発砲によって窓が割られることもない。)
メロディはマクシムに見つめられて、ずっと困ったような顔をしていた。ずっと逃げ出したいみたいだった。
誰かに見つめられることでしか自分を肯定できない情けなさ。わからないひとにはわからないであろうこの惨めさ。マクシムもイヴァンも結局同じだ、自分を所有したいだけなんだとメロディは声を荒げる、でもその怒りは誰より自分に向けられている。
最後にメロディは大きな嘘をつくが、それは窓を隔てた見る/見られるの関係から抜け出すためで、それを経てメロディははじめて「わたし」(あるいはその先にある「わたしたち」)の世界へと足を踏み入れる。メロディの決意は彼女自身を呪いから救い出し、同時にマクシムにも解放をもたらした。そしてふたりの間には、はなればなれになったあとの、新しい愛があった。