日々の生活の中で、という書き出しがもうつまらなくて嫌になってくるのだけど、とにかくそういう日常から離れるようなとき、突然吹くあたらしい風みたいなものを、わたしはいつも求めている気がする。
だれでもしっかり見ているよ
平日の昼間に街をぶらぶらするのが好き、馴染みのない街だと更にいい。その時だけは、何にも関係のない自分になれる気がするから。街の天使の、あるいは街の幽霊の気分で歩き続ける、わたしはそのままいなくなってしまいたい。用もないのに地下鉄やバスに乗って移動し続ける。カメラを持っているわけでもないし、自分がほんとうに誰の目にも留まっていないように思える。
わたしは遅れてやってくる
「抗い」という言葉を聞くと、抗ってきたことよりも抗えなかったことのほうをいろいろと思い出してしまう。わたしには瞬発力がなくて、いつもすべてが過ぎ去ったあとに遅れて怒りがやってくる。抗えなかった過去は蓄積されて、わたしを蝕んでいる気がしてくる。
旅の気分で散歩する
ミカエル・アース監督『サマーフィーリング』は、三つの夏を三つの街で過ごす人々の映画で、彼らはある時は街の住人に、ある時は旅行者になる。
犬の気分
12月に入ってから、今年を振り返るみたいな会話を何度かしているけれど、わたしには一年という単位で記憶を区切るのがもう難しくて、何もかもがいつのことだったかわからなくなっていると感じる。夢でみたことなのか現実で起きたことなのかわからないこともけっこうある。でも一年のムードみたいなものはなんとなくある。
清潔ですこしあかるい場所
ここ3ヶ月くらい、冷蔵庫が不定期にじじじじと音を立てる。ベッドから3歩行けば冷蔵庫があるような狭い部屋に住んでいるので、うるさくて眠れない。上に置いていた電子レンジを降ろしたり、壁から離したりしてみたけど、一向におさまらない。どうすれば静かになるのか誰か教えてください。
かなわない
興奮するのって難しい。正しくできない。わたしは幼い頃から自分が興奮しているとき、その状態を認識したとき、いつも少し後ろめたい気持ちになった。そしてそのうちに情熱がほとんどなくなり、興奮というものは自分にとって「するもの」ではなく「させるもの」になってしまった。
断片的なもの
友達に誘われて銀座シネパトスで『銀河鉄道の夜』を観た。7月の終わり。レイトショー。変な色の猫。細野晴臣の音楽。映画を観たあと人が全然いない銀座の街を歩いた。夏の平日の夜に銀座が閑散としていることなんてあるのかな。映画の記憶と合わさっているからか、思い出す景色がのっぺりしている。まっすぐ続く道と規則的な街灯。わたしたちはコンビニでビールを買ったかもしれない。
海へ行こうか
用もなく海へ行くといつも、なんとなく逃げてきたみたいな気分になる。昔よく学校や家を抜け出して海を見に行っていたからというのもあるし、いろいろな映画の影響もある。
愛しきフラートたちへ
17時台の上り電車は空いている。大きすぎるリュックを抱えて座っているとすぐに眠くなる。目を覚ますころには新宿に着いている。いつの間にこんなに乗客が増えたのだろう。ワープしてきたみたいで楽しい。
犬の愛について
映画における犬について考えるとき、まずレオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』が思い浮かぶ。この映画に出てくる犬といえば、アレックスの放火を見ていた子供が連れているやつ、あとは鳴き声が何回か聞こえるくらいだけど、何よりアレックスが犬みたいなのだ。
個人的な話
人とリンクレイターのビフォア・シリーズの話をしていて、『ビフォア・サンセット』でセリーヌがジェシーに言う「わたしはいつも細部に感動してそれが忘れられない、あなたと別れた日の朝にも、あなたのひげの中に赤毛が混じっていて、朝日に照らされてきらきら光っていて、それが恋しくなってしまった」みたいなセリフが大好きでその通りだと思う、と言ったら、ああそれは女性の視点だね、と笑って返されてちょっと衝撃を受けた。
自分を呪いから解放する
このあいだ、ギヨーム・ブラックの『やさしい人』を久しぶりに観た。この映画はヴァンサン・マケーニュ演じるマクシムの失恋と再生を描いていて、ヒロインのメロディは魅力的だが手に入らない、マクシムが失ってしまった若さを象徴するような女性として登場する。
それで、5年前に観たときはマクシムのさみしさや、以前「日記」のテーマでも書いたマクシムと父との関係が印象的だったけれど、今回は観ているあいだずっと、メロディの悲しみのことばかり考えていた。考えていたというか、なんかもう変になっちゃって、満席のユーロスペースの端っこで涙が止まらなかった。
日記から遠く離れて
ずっと日記を書いている。かつては自分の心をどうにかするために日記を書いた。その頃の日記はだらだらと長く、ノートの罫線も無視して書かれている。今はもう、そういう日記は書かない。1日あたり100文字ほどのスペースしか与えられていない5年連用日記に、黒いボールペンで読んだ本や観た映画、行った場所などを記録する。24時間ごとに区切られた生活。自分を枠に押し込める実験。断片が蓄積されていくことが今は楽しい。
ナポリタン、コーラ、チョコレート・パフェ、ライチ
ファミレスに行くと何を注文するか全然決まらない。ファミレスのメニューには実物よりもボリューム感のある料理の写真、傍らに価格とカロリーが書かれていて、わたしはそれらの写真と数字を睨みつけながらその時々の自分にとって一番ちょうどいい点を探す。ファミレスのわたしはおなかを空かせていて、お金がなくて、太るのが怖いのだ(後ろ二つは、他の店で食事するときには忘れていることもあるのに、ファミレスのメニューによって呼び起こされてしまう)。
やさしい気持ち
小さいころは自分だけの世界にいる時間がいまよりもずっと長くて、神様もいた。いや、神様と言ってしまうのは正確ではないかもしれない。わたしはしばしば生物よりも無生物に憐れみの感情を抱いていた。ベランダの手すりとか、立体駐車場のボタンの機械とか。そして、雨が降るとちょうど「かさじぞう」みたいな感じでそういう物に傘を差したり、タオルで拭いたりしていた。
わたしたちに帰る場所はない
あたりまえだけど楽しいクリスマスばかりではない。わたしはクリスマスを正しく過ごせたことがない。クリスマスの日にはなるべく忙しく働いていたい。さみしいので。
与えられた能力でダンスをする
自分の感情を扱いきれなくなって取り乱してしまうことが、しばしばある。そのたびに、情念の世界から身を引いて、もっと軽くなれたらいいのにと思う。