これからも続く、終わりのあるこの世界で
住本尚子
私の書いた手紙を読んでくれた人から、そのまま話しかけているような文章ですね、と言われた事がある。
何となく気恥ずかしかったけど、そんな文章になったのは多分、私が学生時代にひたすら日記を書いていたからだ、と思う。友達にも家族にも、悩みを打ち明けることが出来なくて、そもそも人に相談をする事が極端に苦手で、学生時代、とりわけ高校生と大学生の時、ひたすら日記に日々の思いを話しかけるみたいに書いていたから。
日記という存在は、私にとっての友達のような、相談相手になっていったのだけど、私自身に向けられた悩みは、結局私自身で解決策を絞り出さなければならず、それはそれは心許なかった。
ジョナス・メカス監督の『ウォールデン』を観たのが、多分、私の初めての他の誰かの日記を観るという体験だったと思う。
『ウォールデン』は、メカスが1964年から69年に撮影した映像が、時系列に並列されていて、時々流れる音楽やメカスの言葉とともに綴られている。映る人々はメカスの周りの人々であるから、あ!知ってる!という人も沢山出てくるのだけど、そんな事は関係なく、街並みや公園が映ったり、誕生日や結婚式、サーカスをひたすら撮影していたり、メカスが日々見ているものがそのまま私たちの目に入ってくるようだ。
Real1
常に模索すべきと言うが
私は目に映るものを礼賛するだけ
私は何も模索しない
幸福だ
メカスのその言葉に、はっとした。
私の日記は、模索だらけで、目に映るもの全てに疑問を持ち、不幸だと嘆いていたのだった。
私は、好き嫌いで世界を見つめていて、視野が本当に狭かったと思う。だけど、目に映るものは自分の見方次第で、いくらでも変えられるんだ!と気付かされた。
『ウォールデン』に映るそのメカスの切り取る全てが美しく感じ、他愛もないやりとりに、こんなステキな一瞬が人生であるのかぁなんて憧れを持ちながら観ていた。
そして、ふと、わたしは今までどんな事を記録していたのだろう?と思い、パソコンの中にただ保存しているだけの映像や写真を見返してみた。
そこには、いとこの舞ちゃんが小学生から中学生になる瞬間とか、おばあちゃんの居眠りの様子とか、友達が食べ物を目の前にポーズをとってくれている写真があった。見返していたら、何だか『ウォールデン』を観ていた時と同じ気持ちになった。
こんな日々のささやかな幸せを、どうして私は幸福だと言えなかったんだろう?どうしてこんな幸せな瞬間を、忘れてしまっていたんだろう?そう思っていると、涙が溢れてしまった。
改めて見るその映像や写真は、とても美しかった。それは見た目が美しいとかじゃなくて、びっくりするほどしょうもないものでもあったりする。でも、その瞬間はもう返ってこない。その瞬間は、その瞬間でしかないという事実が、とても美しいと思った。
『ウォールデン』で切り取られる映像はとても速くて、じっくり見つめていたとしても、見逃してしまった瞬間が沢山ある。だけど、日々はびっくりするほど速く過ぎ去っているのだから、もっともっと毎日見逃した幸せがあるような気がした。そして、メカスはその事を知っている人だなと思う。
Real5
私が分かるのは
人生が続いていくようにー
この映画も長くは存在しない
太平洋沿いのー
のどかな小さな町もやがてはー
無くなるだろう
朝の船も無くなるだろう
もしかすると木や花も
全て無くならずともー
今ほど多くはないかもしれない
これが『ウォールデン』
あなたが今みているもの
人生は多分短い。
長生きをしたとしても、せいぜい100年ぐらいでこの地から離れることになるだろう。そうと知っていながらも、私たちは生き続ける。あなたと話した言葉も、過ごした時間も、無かったみたいにこの世界は続いていく。それでも、確かに存在していたはずなんだ。今、生きた心地のしない日々を過ごしていたとしても、私たちは確実にこの世界で生きている。
いつしか私は日記を書かなくなっていった。あの心許ない寂しさが、むしろ今は必要じゃなくなったんだと思う。今でも、最適な言葉を探して彷徨うことがあるけれど、同じように探している人がいたり、見つけてくれる人がいる事に私は気付けるようになった。
生き続けることは、私にとっては困難だと、私は過去の日記に記していた。今でもそれに変わりはない。
それでも、困難な毎日は、ささやかな幸せの積み重ねでもある。
目に映るものを礼賛しよう。これからも続く、終わりのあるこの世界で。