日記から遠く離れて
こばやしのぞみ
ずっと日記を書いている。かつては自分の心をどうにかするために日記を書いた。その頃の日記はだらだらと長く、ノートの罫線も無視して書かれている。今はもう、そういう日記は書かない。1日あたり100文字ほどのスペースしか与えられていない5年連用日記に、黒いボールペンで読んだ本や観た映画、行った場所などを記録する。24時間ごとに区切られた生活。自分を枠に押し込める実験。断片が蓄積されていくことが今は楽しい。
ジャック・ロジエ監督の『オルエットの方へ』をはじめて観たのは2016年6月3日。金曜日だった。混み合った新文芸坐の前から二番目の席で首を痛くしながら冒頭のクレジットを観て、テーマソング(?)であるGongの「Ego」を聴いて、わたしは、この映画をぜったいに好きになる、と直感した。そして、本当に大好きな映画になった。
『オルエットの方へ』は、女の子三人組が海辺の別荘で過ごすヴァカンスを、日付を追って描いていく。この映画は形式としては日記のようだけれど、それは登場人物たちの日記では決してない。彼女たちは日記を書いたりしないだろう。ひとつの感情に留まったりしないし、計画も反省もない。行き当たりばったりに、昼も夜もひたすら遊び続けるだけ。彼女たちには今しかない。確かに、ヴァカンスが終わってパリでの仕事の日々へ戻るさみしさの気配は、毎日少しずつ入り込んでくる。だけど彼女たちのきらめきは、終わりが想定されていることによって強められるようなセンチメンタルなものではない。一見くだらない毎日の中に、ただ単純に、彼女たちが存在していることの美しさ、おもしろさ、すばらしさがある。たぶんこういうことは日記からこぼれ落ちてしまうことだから、映画の中に閉じ込められて、奇跡のように輝いて見えるのだろう。
この映画を見る少し前に、ミランダ・ジュライの本を読んでいて感銘を受けたフレーズがわたしの日記に書き留めてある。「あえて無意味であることを選ぶゆえにその人の生のすべてが反映されるようなそんなアート」。これこそ『オルエットの方へ』の精神なのではないかと思う。
わたしは主人公の女の子三人組も大好きだが、ベルナール・メネズ演じるジルベールが特に好きだ。ジルベールは女の子たちのうちの一人の会社の上司で、彼女のことが好きなばっかりに勝手に別荘に現れるのだが、もちろん相手にされることなく、ひどい扱いを受ける。彼には喜劇俳優みたいな感じがあって、家に入れてもらえずに外にテントを張って寝かされるところや、みんなのために懸命に料理をするのに食べてもらえないところなど、哀れなのにとっても面白い。
わたしがベルナール・メネズを初めてスクリーンで観たのはギヨーム・ブラック監督の『やさしい人』で、ヴァンサン・マケーニュ演じる主人公の父親役だった。『やさしい人』のプレスによると、ベルナール・メネズは舞台に出ながら教師をしていたが、これといった役に出会えずにいた。フランスでの生活にうんざりした彼は、カナダに行こうとする。しかし旅立つ前日にジャック・ロジエ監督と出会った。そして初めて出演することになったのが、『オルエットの方へ』だったとのことである。
『オルエットの方へ』の最後で、パリに戻ったジルベールは逞しくも別の女の子を来年のヴァカンスに誘っている。ひとつの夏を遠く美しい思い出にしたりせず、それはそれとして人生は進んでいくということを見せてくれて、わたしはそのときとっても救われた気持ちだった。ロジエの映画には、『アデュー・フィリピーヌ』や『メーヌ・オセアン』にも言えることだと思うけれど、人生を丸ごと肯定するような強さがある。そして、『やさしい人』の父親はこの夏の延長線上に生きていたんだなあとか思って、なんだかうれしかった。