とびっきりゴージャスな芋
鈴木史
決まってそれは、秋のおわりか、冬のはじめ。
父は安く買ってきたサツマイモをアルミホイルにくるみ、さらに上から新聞紙でくるむと、庭にあるコンクリートのブロックで簡単に囲っただけの手製の炉に放り込んだ。火を付けてしばらく待ち、サツマイモを取り出す。アルミホイルをはがせば、濃い紫色のそれは、蒸気を盛んに立てて、軍手をした父がふたつに割ると、黄色い芋の中身が現れ、熱く甘い臭気が、冷たい外気に溶けてゆく。
幼いころのわたしにとってサツマイモはその時期だけの特別な食べ物で、どこか贅沢品のように感じていた。でも、祖母は、戦争中は芋ばかり食べていた、とも言っていた。わたしにとっては贅沢品だった芋が、祖母にとってはジリ貧の象徴だったのだ。
タル・ベーラの『ニーチェの馬』で、狭い家に住む老いた父(?)と娘(?)は、ひたすらジャガイモを食べていた。来る日も来る日も。半身がマヒした父は、動く片手でげんこつを作り、茹でたジャガイモを潰し、口に運ぶ。最後には、どうやら世界から火が失われ、生のジャガイモをしゃりしゃり食べながら、父は「食え……。食わねばならぬ……」と呟く。ジリ貧だ……。
正直、『ニーチェの馬』は、途中に出てくる恰幅のよい坊主頭の男がしていた羽毛のえりまきが妙に気になってしまって、「どこで売っているんだろう」と思っているうちに終わったという印象で、あとはとにかく全編にみなぎるジリ貧感にひたすら耐えるような体験だった。
芋の出てくる映画で、それが贅沢さと結びついているものってあるんだろうか。
リドリー・スコットの『オデッセイ』でも、火星にひとり取り残されたマット・デイモンが、ジャガイモを細かく切って、手製のビニールハウスの中で栽培し、なんとか食いつなごうとしていた。やっぱりジリ貧……。
『オデッセイ』も、とにかくひもじいなあと思って見ているうちに、いつの間にか終わっていて、もはやマット・デイモンが助かったのか、死んだのかも覚えていない。
わたしが芋に感じた贅沢な印象を、映画における芋のジリ貧感がつねに裏切っていく。ここまでくると、いつか、芋をとびっきりゴージャスに描く映画を自分で撮ってみたい。就職先の決まった大学四年生の女子四人組が卒業旅行でどこかの田舎に行き、めちゃくちゃおいしいサツマイモを振る舞われて、「やばいやばい!!」と言い続けるだけのシーンが90分続く映画とか(イメージ)。そうしないと幼いわたしが報われない気がしてくるよ。
鈴木史
映画監督/美術家
11月に名古屋でやった個展の図録が、来年頭に出ます。映画撮ります、物体作ります、文章書きます、仕事ください。
メール:t.suzuki1988@gmail.com ツイッター:fumi_t_sue