わたしは遅れてやってくる
こばやしのぞみ
「抗い」という言葉を聞くと、抗ってきたことよりも抗えなかったことのほうをいろいろと思い出してしまう。わたしには瞬発力がなくて、いつもすべてが過ぎ去ったあとに遅れて怒りがやってくる。抗えなかった過去は蓄積されて、わたしを蝕んでいる気がしてくる。
チャン・リュル監督『柳川』の中で、兄弟であるチュンとドンは対照的な人物として描かれる。兄のチュンから見たドンは、10代の頃に突然北京訛りをやめると宣言したりするような変わり者で、チュンは中年にさしかかっても未だ独身の弟をうらやましいと言いながら、どこか見下している節がある。チュンには妻子がいて、社会的地位もあるようだが、彼の言葉はステレオタイプなものばかりで、ずっと何かを演じているような印象を受ける。だからといって二人は仲が悪いわけではないようで(兄弟ってそういうものなのだろうか、わたしは一人っ子なので兄弟に過度な憧れがある)、ドンはチュンを誘って、二人の幼馴染で、チュンのかつての恋人であるリウ・チュアンが暮らす日本の柳川へと旅に出る。
チュンは柳川で入った居酒屋の女将に「俺と弟のどっちが女にモテそうか」と聞いたり、20年ぶりに会ったチュアンのことを「そそる女になった」と言ったり、まったく嫌になっちゃう感じなのだが、ドンはずっとその隣でのんびり笑っている。しかし、実はドンこそが抗う人であったことに、わたしは映画の最後で気づく。かつて北京訛りをやめたのは、地方から北京に引っ越してきて方言を笑われたチュアンのためだった(その時彼女をからかったうちの一人がチュンで、彼はそのことをすっかり忘れていた)、というのがわかりやすいエピソードだけど、ドンのいなくなった部屋、そしてそこに佇むチュアンを見ていたら、ドンの呑気そうな顔やなんかかっこわるい自転車の乗り方、そういうひとつひとつが抗いの姿勢のように思えてくる。
チュアンは、かつてチュンを愛した理由を聞かれて、思春期という複雑な時期に自分を軽く扱った、そういうところに惹かれたと答える。傷つくとはわかっていても、抗えないような恋の気分も確実にあったのだろう。ファム・ファタルのように見えるチュアンだけど、北京からロンドンへ、そして柳川へと移り住むことで、チュンに、というかチュンが象徴する「北京」的なものに抗い続けているのかもしれない。かつてチュンが教えたというダンスをチュアンが自販機の前で踊るとき、単純な構造からこぼれ落ちるような美しさが見えてくる。
もしかしたら、わたしはわたしで生きてるよっていうだけで、いつかそのこと自体が抗いになっていくのかもしれない。自分の人生にも登場した(そして退場した)チュンのような人のことを思い出しながら、そう考えた。