ベッドから出なくても負けません
上條葉月
この数年ベッドの上にパソコンや本などの資料、必要なものはだいたい置いてある。布団から出られない時が結構あるからだ。私は人のいうそれではないレベルでめちゃくちゃ寝ている。ただでさえ長時間寝る上に、眠いわけではないがめんどくさくて動けないときも多い。それでは生きていけないので、布団から出なくても仕事をできる状態にした。そんなことをすればますます出なくなるわけだが、もはやどんな状況であっても働いて、どうにか自立して生きてることだけが自分のことを肯定できるよすがになっているから仕方ない。生活を立て直すことよりも日々とりあえず仕事をしとくほうを優先する。だから健康的な生活をしたほうがいいとか、休む時は休むみたいな、世の中の価値観を押し付けられたら(それはたいていの場合、気遣ってくれている優しさだとわかってはいるけれど)つい突き返してしまう。別に仕事をするのが好きなわけじゃないが、どんな時でもちゃんと金を稼いで暮らせる自分のことが好きなんだと思う。自分で労働して稼いだ金で生きている限り他人に何か言われる筋合いがないという、表面的な自由を得られるから。
田中登『(秘)色情めす市場』の芹明香がドヤ街を離れない選択をするのも、多分何かそういう類の、自分を肯定するための抗いな気がする。トメは「逆らいたいんや」と言う。一体何に逆らいたいのだろうか。なんとなくわかる気がするけど、いつもわかるようなわからないような引っかかりが残る。でも、男に街を離れようと言われてもあの乾いた路地に一人残ったトメは、多分きっと、死んでしまった弟や、ダイナマイト自殺した青年、あの年で未だに娘と客を取り合っては騒ぎを起こす母親のように人生を狂わすことなく、あの街で自力で生きていることが唯一の自分を肯定できるよすがであり、抵抗だったのだと思う。人がまともに生きていける世界じゃない、と社会が思っていても(そして自分でもわかっていても)、そこで悲しみも虚しさも軽やかにやり過ごしていくことが、そんな世界に逆らうことなのだと。
ロマンポルノはそういう、男性とは違う女性の世界への抗い方を描いた映画の名作が結構ある気がする。それは女性だからこその苦痛や苦労の中でせめてもの自分にできる抵抗の瞬間だからかもしれない。斉藤信幸『黒い下着の女』は大金を横領したカップルの逃避行=Lovers on the runもの。もはや自由になど暮らせない状況の中で、女は自分が男を翻弄しても翻弄されることは許さず、常に男や周囲をわざと挑発し続けるみたいに好き勝手に行動し続ける。彼女が大股開きで河川敷に座り込むシーンが忘れられない。
Lovers on the runものが好きなのは、たった二人だけで、それでも一人きりなのとは違うそれぞれの形で、自分たち以外の世界の全てに抗う話が多いから。ニコラス・レイ『夜の人々』のボウイは犯罪から足を洗いたいと思っても、沼にはまって抜けられない。でもどんなに状況が悪くなっても、最後まで二人でいるために抗い続ける。20ドルの結婚式のシーンは何がなんでもそれだけは守るのだという願掛けか祈りのような切実さがあって、だからこそ切ない。キーチの身を思うあまり彼女を置いて去ろうとしたところで、二人の旅は終わり、ボウイは死んでしまう。一緒にいることで二人はどうにか世界に抗っていて、それを諦めた瞬間に、何かが終わってしまったみたいだと思う。
自分が大切な価値観や、ものや人を守ることは、そのせいでどれだけ生きづらくなったとしても、それ自体が世界に押しつぶされないための気力になる。他人や社会から否定された時に自分が崩れないための砦みたいな。だから世界のその他全部をこっちの方から拒絶してでも、ねじ伏せられないように抗いながら生きていくしかない。