終わり、そして人生はつづく
上條葉月
2021年は2020年よりもずっとよく分からなかった。今もよく分からないからうまく書けないのだけど、それは日常に対する姿勢みたいなものだと思う。多分去年はまだどこか世界が変わってゆく中で、「でもこんな状況では誰もわからない、うまくできなくて仕方ない」という投げやりな気持ちと、滅亡に向かっているとしたらそれはそれで、どうせみんな一緒だという安心感があった。要するに、いろんな考えることを放棄していた。
だけど世界はやっぱり滅亡しなくて、今年のある時期から、なんというか、たとえこれでひとつの時代が終わったとしても、やはりその後の日常を生きていくしかないのだと感じた。何かの終わりに向かってると思って考えるのをやめていたけど、あれ、結局自分の直面すべき世界は変わりそうにない、という事実。これだけ大きな変化があっても、家賃は払い続けなきゃいけないし、明日も明後日もお腹が空くし、働かないといけない。結局、私の世界は本当はあんまり変わってないのでは?
秋のキアロスタミ特集で10年振りくらいに観た『そして人生はつづく』、地震で家族を失った少女たちに「その時の状況を教えて」なんて聞くキアロスタミは性格が悪いんじゃない?と思えてくる。でもそこにいる人々は、最悪な状況の中でも、絶望せずに淡々と生きている。ままならない、嫌なことばかりの社会でも、人生はつづく。キアロスタミは世界を美しく描いたりしない。優しくない世界で、確かに生きつづける人々の姿を焼きつけている。
友人たちが東京を去って行ったり、これまで価値観が近いと思っていても思わぬところで大きな断絶が生まれたり、なんとなく疎遠になったり、もう二度と会えなくなったり。この2年で多くの別れがあった。『春原さんのうた』の画面では、人々はマスクをしている。でもそういう目に見えて表象される形だけでなく、ウィルスによる目に見えない世界の変化が捉えられている気がした。彼女にとっての春原さんという(多分)大きな喪失は、私にはパンデミック以降の世界に残された様々な別れと重なった。それでも彼女はたくさん食べる。取り返しのつかない喪失の後でも、どら焼きや音楽に救われ、日々の些細なやり取りの中でそばにいる人々と共に、そして人生はつづく。
わざわざ人混みに出るのが億劫で今年は家で映画を観てばかりだった。新作は全然見ていないけれど、新宿のレイトショーで見た『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党集結』は、(DC映画なんてほぼ見たことないのに)心の中でガッツポーズを取った。様々な組織や国家間で利益不利益をめぐる戦いを繰り広げようと、街はネズミのモノ!となるところがいい。人間がどんなに揉めようと、社会に対する考え方が様々あろうと、結局は宇宙は人間の考えの及ばない次元で動いていて、街を支配するのはドブネズミだ。人間にはどうにもならないことがたくさんあって、生きているとそういうものに振り回されることのほうが多分ずっと多い。立派なドブネズミがはびこる街の片隅で、それでいいんだ、と思う。
年末に観た『ドント・ルック・アップ』は世界の終わりを迎えてなお分断する社会の滑稽さに膝を打つというより、ごく個人が最後の日をどう迎えるかというラストの優しさにほっとした。携帯電話に日常を乗っ取られても、AIに予測できない個人の可能性だけに人生の面白さがある。スマートフォンにもわかる程度のつまらないことなんて本当は何もしたくない。もし本当に世界が終わってしまうとしたら、私はその時そばにいてくれる人とちゃんと手を取り合っていられるだろうか。年末は感傷的になってまたそんなことを考えてしまうけれど、なんてことはない、またひとつ年を越したところで、人生はつづく。
2021.12.31