媒介
上條葉月
一時、ポストカードにひとことどうでもいいことを書いて友人に送るのが好きだった。昔好きだった人にも映画のポスターの柄のポストカードを送った。なんの映画だったかは忘れたけど、とにかくその数週間後のある日、ポストに返信が入っていた。今でも家にあるはずだけど、私は物を大切にするとか、きちんと整理することができないので、もう滲んでしまって読めない。普段は当然メールや電話で話していて、届いているはずなのに何のリアクションもなかったから心配になっていたのだが、よく考えたらわざわざ時間をかけて郵便を通して届いた手紙に、即座にメールでリアクションを返すなんて変な話だ。手紙を受け取った彼の対応が正しかったのだろうと思う。
フロベールからルイーズ・コレへの手紙「ボヴァリー夫人の手紙」や、カフカの「ミレナへの手紙」が好きだ。人が信頼している人間にだけ向けて紡いだ言葉の親密さと他人には見せないような思考の過程や変化が見えるのがいい。その一方で(日記もそうだが)、人の手紙を読むのは何だか盗み見て申し訳ない気持ちになる。
ジョセフ・ロージーの『恋』(1970)の他人同士の手紙は少年の心に一生の傷を残す。イングランドの上流階級の友人宅で夏休みを過ごす12才のレオは、そこで一人娘のマリオンに淡い恋をする。マリオンは彼に小作人のテッドへ手紙を届けるよう頼み、レオは彼女に信頼されていることに喜ぶが、やがてそれは二人の秘密の恋文だと知る。
『恋』の原題は「The Go-Between」=橋渡し役で、彼は苦しみながらもマリオンに、そして二人の関係に惹かれ手紙を届け続ける。婚約者がいながら身分の違うテッドに恋するマリオンを軽蔑してみたり、テッドへの憧れや嫉妬の間で揺れながらも、彼はメッセンジャー役を続け、そしてそれは当然ながら悲惨な結末を迎える。
連絡を取る手段が手紙しかなかったら、きっとポストに入れるたびに無事に届きますようにと毎度のように祈っただろう。それでも郵便サービスならマシで、マリオンたちは何も知らない子供に全てを委ねるしかない。二人の切実さをレオは理解していただろうか。
13才の誕生日パーティにマリオンが現れなかった時、レオは本当に自分がただのメッセンジャーであったことを受け入れざるを得なくなる。レオを祝う代わりに皆が集まる機会を利用してテッドと会っていたからだ。どれだけ秘密を共有して近い距離にいたとしても、彼自身が手紙をもらえることはない。
この映画は時間軸の構成が面白いのだが、最後には時折インサートされていた、大人になったレオが今や老女となったマリオンと話している現代のシーンで終わる。レオはもう大人になり、かつて運んだ恋文の重さを知っている。マリオンはテッドの思い出を抱きしめて別の人生を歩んできた。だが彼は最後までメッセンジャーをやめられない。最後まで、初恋の人の手紙を自分以外の大切な人に届け続けるだけなんて、なんて残酷なんだろう。
やっぱり誰かを介して言葉を届けるより直接伝えたいと思ってしまう。私があなたに何かを届けようとしていることは、誰にも知ってもらう必要がないし、誰かを傷つける必要もない(死んだ後にもし自分の日記や手紙が本になって人に見られるって考えたら最悪)。でもそれがいろんな理由でできないから、紙の上に言葉を託す。手紙が届くまでには知らないいろんな人の手を渡っているけれど、電話やメールで連絡したり、インターネットに言葉を放り投げてるのも、無機物の電波を介している。もどかしい。
本当は大事なことは全部直接届けたい。理解してもらえなくても、覚えてなくても、酔っ払ってても、どこにも残らなくてもいいから。