日々の生活の中で、という書き出しがもうつまらなくて嫌になってくるのだけど、とにかくそういう日常から離れるようなとき、突然吹くあたらしい風みたいなものを、わたしはいつも求めている気がする。
空の目、土地の匂い、永劫回帰としてのウロボロス
空はこちらを見ている。空のことを、天とも言う。天には神さまがいたりする。
気とも言う。空気や大気も空の一部である。
なにもないことを示すこともある。それは同時になにかが入る余地があるということも意味する。
日本語の空、には、そうした別の世界を示す天としての空と、なにもない虚としての空、相反する意味が同居している。しかしどちらも別物なのではなく、「空」ということばを介して、まったく別の意味の同じ存在を示している。
はじめて空がわたしにできた
今年のはじめに、小津安二郎監督の『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』を観た。その時に「空がよく見えた。」と言っている人がいた。ほんとうにそうだった! 道と空と子供しかない場面もあって、ずっとずっと遠くまでこの場所が続いているようにさえ感じた。いつしか東京の街は空が建物で削られていき、見ようとしないと空は見えなくなっている。
書き割りの世界
今の家は外国みたいな小さい謎のバルコニーがついている。そこからの景色が見晴らしが良くて好きだ。特に雲ひとつない晴れた日の新宿のビル街が良い。なんだかぺらっとして、書き割りみたいに見える。
夜への歩み
物書きになりたい、なれるかもしれないと思い立ち、とっかかりが何も無いまま町の文房具店で原稿用紙を買って、詩のようなものを書き始めたのは16才の頃だった。当時の「DOLL」や「Fool's Mate」のような雑誌には「ミニコミ・サークル募集」「友達募集」などといった読者参加のページがあり、日本全国のミニコミ編集者が書き手を募っており、今では考えられないことだが、ほぼ全員の本名と住所が掲載されていた。急に大手の出版社に原稿を持ち込むような度胸も才覚も無いので、そうしたインディーズの出版物と関わりを持つことからきっかけが掴めるのではないかと考え、ある東京の文芸誌を作っている人に書いた詩を数篇送ってみた。
媒介
昔好きだった人にポストカードを送ったら、数週間後のある日ポストに返信が入っていた。今でも家にあるはずだけど、私は物を大切にするとか、きちんと整理することができないので、もう滲んでしまって読めない。
だれでもしっかり見ているよ
平日の昼間に街をぶらぶらするのが好き、馴染みのない街だと更にいい。その時だけは、何にも関係のない自分になれる気がするから。街の天使の、あるいは街の幽霊の気分で歩き続ける、わたしはそのままいなくなってしまいたい。用もないのに地下鉄やバスに乗って移動し続ける。カメラを持っているわけでもないし、自分がほんとうに誰の目にも留まっていないように思える。
慌てないでっていってるんでしょ?
もう直接話すことなんてできない、放つ言葉を選んで欲しい。そう思って恋人と手紙のやりとりした。何通かやりとりしたけれど、質問したことに答えてもらえなかったり、返事がもらえない状況になったりと、うまくいかなかった。おそらく、わたしにとって手紙というのは最終手段みたいなところがあって、直接会うよりは相手のことをより深く考えられるような気がしていたんだけど、相手にとっては違ったんだと思う。
Kill Yr Idols ときめきに死す
ゴダールの「ウィーケンド」を観た時、というよりも、「ウィーケンド」の渋滞シーンを大学の寮のテレビの画面で、そこで読み取れるものを情熱的に話しかけてくる親友のコメンタリー付きで観た「ウィーケンド」。その時、私は初めて文学を「読み解く」、「分析する」という行為を映画でも出来るという喜びを知った。しかも、動いているもので出来る。ただ「観る」という行為から「噛んで(感で)味合う」という行為に変わった瞬間。ときめき。
ベッドから出なくても負けません
布団から出られない時が結構ある。眠いわけではないがめんどくさくて動けないというか。それでは生きていけないので、もうパソコンや資料、必要なものは全部ベッドに置きっぱなしで、布団から出なくても仕事をできる状態にした。
わたしは遅れてやってくる
「抗い」という言葉を聞くと、抗ってきたことよりも抗えなかったことのほうをいろいろと思い出してしまう。わたしには瞬発力がなくて、いつもすべてが過ぎ去ったあとに遅れて怒りがやってくる。抗えなかった過去は蓄積されて、わたしを蝕んでいる気がしてくる。
どんなに弱ったとしても
めっきり夜が寒くなってきた。
寒いから頻繁に暖房器具に電源を入れるようになったのだけど、大家からは値上げした電気代を節約するように電話があったり(わたしのお家は特殊で電気代が固定なのです)、家賃の値下げの代わりに風俗で働かないかと謎の交渉をしてきたりと、マジで変な電話をしばしばかけてくる。
信念の踊りと雑な観客
ブライアン・フェリーが唄う“Smoke gets in your eyes”を何かのタイミングで思い出し、何度も脳内再生されてどんな場面だったか無性に気になったので、久々にソフィア・コッポラの『SOMEWHERE』を観てみた。そこまでグッとくる映画でもないんだけどいくつか良い場面があったことを再発見した。映画のプロモーションのためイタリアに滞在中の父スティーブン・ドーフと娘エル・ファニングがホテルで夜中に寝付けなくてルームサービスを頼み二人でジェラートを食べながらベッドに足を伸ばしてイタリア語吹き替えのドラマ『フレンズ』を観るシーン。ここが僕にとっては一番「旅っぽい」瞬間だ。こういう感じを旅の思い出のようなものとして鮮明に覚えている。
もう存在しない旅
2020年にフランスに行った時、ジャン・ジュネのタイトルでしか知らないブレストという町に行った。現地の人の車に乗せられるがまま、気づくとあたり一面畑の中の田舎の馬小屋にいた。
ホテルに置いてきたの?
不思議なもので、これまでいくつもの小さな旅をしてきただろうに、「旅」と聞いてすぐに頭に浮かんだ場所は、記憶のなかで点在するホテルたちだった。
旅の気分で散歩する
ミカエル・アース監督『サマーフィーリング』は、三つの夏を三つの街で過ごす人々の映画で、彼らはある時は街の住人に、ある時は旅行者になる。
終わり、そして人生はつづく
2021年は2020年よりもずっとよく分からなかった。今もよく分からないからうまく書けないのだけど、それは日常に対する姿勢みたいなものだと思う。多分去年はまだどこか世界が変わってゆく中で、「でもこんな状況では誰もわからない、うまくできなくて仕方ない」という投げやりな気持ちと、滅亡に向かっているとしたらそれはそれで、どうせみんな一緒だという安心感があった。要するに、いろんな考えることを放棄していた。
スーハースーハーする数値
2021年といえば、パルスオキシメーターがお家に届いて、血中酸素濃度が測れるようになった。仕事場では二酸化炭素がどのくらいあるのかを測れる機械もあり、酸素と二酸化炭素が数字で見えるようになった。吸って、吐いてを繰り返している人間の痕跡を数字で確かめていく作業は、少し秘密めいている。あなたたちの残した二酸化炭素を、私は知っているのよ、という気分。
犬の気分
12月に入ってから、今年を振り返るみたいな会話を何度かしているけれど、わたしには一年という単位で記憶を区切るのがもう難しくて、何もかもがいつのことだったかわからなくなっていると感じる。夢でみたことなのか現実で起きたことなのかわからないこともけっこうある。でも一年のムードみたいなものはなんとなくある。
とびっきりゴージャスな芋
決まってそれは、秋のおわりか、冬のはじめ。父は安く買ってきたサツマイモをアルミホイルにくるみ、さらに上から新聞紙でくるむと、庭にあるコンクリートのブロックで簡単に囲っただけの手製の炉に放り込んだ。火を付けてしばらく待ち、サツマイモを取り出す。アルミホイルをはがせば、濃い紫色のそれは、蒸気を盛んに立てて、軍手をした父がふたつに割ると、黄色い芋の中身が現れ、熱く甘い臭気が、冷たい外気に溶けてゆく。